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『世界で最も危険な男』(原題“Too Much and Never Enough”)

 品位と知性のある暴露本。そんなものが存在するとは、本書に出会うまで考えたこともなかった。2020年7月14日に発売されるや初日だけでほぼ100万部が売れたのは、「あのトランプ大統領の姪が書いた」「大統領とその側近が出版を阻止しようとしたが敗訴した」という話題性がもちろん大きかっただろう。しかし臨床心理学者であるメアリー・トランプは、叔父ドナルドの深刻な人格的欠陥をその家族史(親兄弟との関わり、特に父親の影響)に起因するものとして描いており、冷静で的確なその筆致はまったく予想外のものだった。これは暴露本などという低劣浅薄なものではない。れっきとした精神病理の家族史である。

 ドナルド・トランプという人物については、政治に無関心な日本人でも2016年大統領選挙の際にあの一連の「トンデモ発言」が多少なりとも耳目に入ったはずだ。就任後には「さすがにほとんど実行はしないのだな、やれやれよかった。選挙用に派手なハッタリをかましていただけか」と思った人も多かったろう。それから三年以上が経った今年、突如として世界はコロナ禍という未曾有の危機に突入したが、わけてもアメリカ合衆国の惨状は目をおおうばかりである。本書のプロローグで著者はこう書いている。
「これ以上沈黙していてはならない。この本が出版される頃には、十万人単位のアメリカ人の生命がドナルドの傲岸不遜にして頑迷なる無知の祭壇に捧げられた犠牲となっていることだろう。彼が二期めも大統領に就任するようなことがあれば、アメリカの民主主義は終わりだ。……私は彼が祖国を破滅へと導くのを許すことはできない」

 原書の表紙には副題として「わが一族(ファミリー)はいかにして世界でもっとも危険な男を作りだしたのか」と書かれている。ご存じの方も多いだろうが、英語のfamilyは日本語の「家族」よりだいぶ意味が広い。日本では普通なら姪が叔父を「家族」とみなすことはなく「親戚」というカテゴリになる。さらに著者が直接会ったことのない曾祖父まで含まれているから、このファミリーの訳語はやはり「一族」しかないだろう。ただし一族史によくある群像劇のたぐいとは違う。意外に思われるだろうが、本書はドナルド・トランプ以上にその父フレッド・トランプを中心に据えて描かれている。それだけの必然性があるからだ。

 私は著者と近い年齢で、強権的な家父長というものを皮膚感覚で知っている最後の世代ではないかとつねづね思っている。私の祖父二人はフレッドのような人物ではなかったが、それでも数多い息子娘のだれ一人として親に逆らうことなど考えたこともない、その雰囲気はよく覚えている。そして高度成長期には家父長の権威が失墜したと嘆かれ、子どもをめぐる問題の根本原因はそこにあるとさえ言われたものだった。「怖い存在」であり、無理解で抗弁不能の絶対者という父親像は、今の日本では想像もできない人がほとんどだろう。
 しかし欧米人の深層心理にある原型は、ゴヤの絵画「我が子を喰らうサトゥルヌス」あるいはフロイトの父殺し願望論に見られるとおり、時代に関係なく我々の理解を超えた桁違いの恐怖であるらしい。
 その“我が子を喰らう怪物としての父親なるもの”こそが、本書の中心主題である。すなわち、そのイメージを欠いたまま本書を読むと「親父が何と言おうが自分の好きに生きればいいのに、こいつら弱すぎるだろう」というつまらない誤解で終わってしまう。日本には隠居というシステムがあったおかげか、西洋や中国とは違って歴史的に権力者の親殺し子殺しがほとんど見られないし、長きにわたって道徳の根本には「忠孝」があった。だから残酷で怪物的な父親像に日本人がリアリティを感じないのはしかたがない。しかしひとたび気づいてしまえば、欧米の二十世紀文学や映画などあらゆる物語において“父殺し”というテーマがいかに広く数多く見いだせるか、しかも「殺さなければ自分が殺される」という強迫観念がどれほど根深いか、いやおうなしに見えてくるものだ。

 合衆国史上最悪と言われるドナルド・トランプ大統領は本当のところどういう人物で、どうしてああなったのか。その完全な答がここにある。そしてドイツから移民として渡ってきた祖父から彼に至るまでのアメリカ百年、二十世紀まるごとの歴史が背景の域を超えて私には特に興味深かった。むろんそれは私の担当した冒頭から序盤の話であって、物語が時代を下り現在へと至る後半では予想に違わず巨大資産がらみの「内情暴露」あれこれも出てくる。しかし著者自身が名前を挙げているように、その方面を調査し暴くジャーナリストならすでに幾人もいる。幼いときから何十年にもわたってクリスマスや結婚式など親戚が集まる数多くの機会にドナルドとその親兄弟全員を見てきた姪であり、長じては遺産をめぐる訴訟沙汰などを通してドナルド個人とも対峙してきた「真実を語る意志を持つ身内の人間」は、このメアリー・L・トランプただ一人しかいないのである。


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 《付記》大統領選挙まで残り数カ月という時期にアメリカで刊行された本書は当然ながら日本での翻訳出版も急がれたため、翻訳者複数による分担同時進行でした。そのうちの一名にすぎない私が「訳者あとがき」めいたものを発信するとは僭越なことでありまして、共訳者の方々にはご寛恕を乞うばかりです。またこの方式では用語や文体の統一など、大量の作業を編集部が担うことになります。末筆ながらリベルおよび小学館の関係各位に感謝を申し上げる次第です。


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