男メンヘラと女メンヘラの人生難易度は天と地ほど違うから、どう生きるべきか
メンヘラとは、心に問題を抱えている広く神経症を有する人間、つまりは自己受容、自己承認が低く、自尊感情が低いために、自分を大切にできない人間とすれば、そうした人間は一般的に圧倒的に女性の方が生きやすい。
それは、男女では人生の主体性が異なるからだ。
男性は、人生を主体的に選択しないと輝かしい未来には到達しにくい。
一方、女性はただ女性であるというだけで、コネや人脈が勝手に寄ってきて、勝手に輝かしい未来に近づきやすい。
お互い実家が資産持ちではなく、実家は太くない場合に、いや例え実感が太かったとしても、圧倒的に男性の方が生きにくい。
それは社会関係資本(コネ・人脈)の差が異なるからだ。
どんなに落ちぶれても無数の人脈ができる女性と、誰も寄ってこないノーマル男性の人生
女性は生まれながらに誰しもが持つ肉体的魅力によって、20代まで、男性と比べると圧倒的な人脈ネットワークを手に入れられるのが女性であり、男性の場合は吸引力は自助努力によって後天的に獲得しなければ、誰も寄ってこない、「チー牛」や「キモくて金のないおっさん」の完成となる。
たとえ、勉強ができなくても、金がなくても、アルコールやタバコや何かの依存症やメンヘラだもしても、ただ女であるという先天的な獲得物一点で、TDRのファストパスのごとく、3時間待ちの行列を飛び越えて、アトラクション直通のルートを辿っていくことができ、それらは男性であればさまざまな権謀術数の末に手に入る情報やコネであったりする。
どんなブスでもデブでも20代特に前半まではこの特権の無知のヴェールに包まれて、日本一幸福度が高い年代性別を享受することができる。男性には決して一生訪れない、受け身の特権を20代で獲得でき、その後もこれまで得た社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)を利用して、周囲を取り囲んできた無数の男性から提供された舗装道路を歩むことができる。それらは男性の場合は主体的に獲得しないと決して得られなかった官製道路である。
これまでのブログ記事で散々議論してきたが、その特権を担保するためには、妊娠をして出産をしてもらわないと、男性側はコストを回収できないのだが、そこまでたどり着く男性は取り巻きの中のごく一部に過ぎない。多くはサンクコストから、女性に資源を提供し続ける「アッシー・メッシー・ミツグくん」となったり、育てオスや守りオスとして、単なる資源提供者として、性交リターンを回収できずに、損だけして終わってしまうのである。
ヤること以外に価値を見出せる男性なんて存在しないと思う
これが不都合な真実であることは十分社会的合意があるだろう。だから男性のほぼ全ては女性のように嘘をつく技術を身につけてパートナーを獲得する。安定的にヤレる所有物があることは男性のメンタルの安定と生活のハリにつながるからだ。
しかしながら、男性は会話自体には興味はない。
男性にとって会話は情報共有と議論のために存在している。実利的な目的のために会話する訳であって、感情の共有では楽しさは得られない。はっきり言って女に合わせてそういうふうに演出しているだけだ。
膨大な金と時間の浪費を考えると、風俗のがコスパいいのもうなづける。もちろん性病リスクと純愛(笑)はないが。あまり尽くしてくれるようなパートナーでない限りはそれも期待できない。
男にとっては恋愛もしくは婚活とは、本当に難しい駆け引きである。わざ、わざと演技が上手くなると本当に楽しい気がしてくるが、結局のところ男はそして筆者は冷酷に男女関係を見ている。
どこに価値を見出すべきか迷っている。『異邦人』のムルソーのように、親族であれ誰であれ死は平等に訪れるのであって、パートナーすらしょせん赤の他人であって、そこに感情の全てをコミットすることもなく、普通の日常生活が送れてしまうのかもしれない。感情を殺して生きることに慣れすぎてしまっていて、演技ではない本当の感情移入は難しい気がしている。
そうした二人の壁を突破するのが、我が子という力なのだとすると、とにもかくにも、まずは子作りして子供を手に入れることが全てだとは思うが、常に不仲や離婚リスクが付きまとう。他人との共同生活の問題や親族同士の付き合い、妻の劣化や不倫や調停離婚や慰謝料などのリスクも男性側が大きい。
心底難しい。
男メンヘラは、自分で自分の人生を救うしかない
とある医院経営者の自伝を最近読んだ。
そこには、人生結局、自分以外誰も頼りにならないことが記されていた。
自分の人生の最期に、死んで棺桶に入り葬儀が行われる時に、それによって本当に夜眠れないほど心を痛めてくれる人間は、職場やビジネス上の付き合いの人間ではないし、親族ですら本当に近しい人間だけなのであり、そういう本当に親しい人間ですら、本当に夜も寝られないという関係なんてわずかであろう。
つまり、しょせん自分以外、他人なのであり、他人は他人でしかない。
冷徹な人間観をもつことは、人生の初期において何らかの過酷な体験を経て生まれることが多いように思うが、男メンヘラもまた、そのような体験を経ている。発達障害、サバイバー、挫折体験をもって成人になると、多かれ少なかれそうした人生観を持つのだろう。
結局の所、男に生まれたなら、主体的に人生を切り開く以外の選択肢は残されていないのである。
誰も自分の人生を救ってくれない、常に最後に頼れるのは自分だけだという覚悟がないと、男の人生は立ち行かなくなる。
「理解のある彼くん」は先天的に女性性をもって生まれないと手に入らないないものねだりであるし、二次元美少女ヒロインが助けにも来ない。
NHKの岬ちゃんやルイズは助けに来ない、親すらも頼りにならない。
そうした覚悟がないと、本気で価値のある黄金色の人生は手に入らないだろう。
あらゆる物事がリスクとなり、潔癖に鬱苦しい国と化した令和日本社会において、主体性をもつこと自体が一種のリスクになりえるのかもしれないが、自尊心や愛の欠如、基底欠損や自己存在の不確かさ、アイデンティティー未確立な男メンヘラだったとしても、
常に人生は蜃気楼でしかなく、実体のない見えない時間の中で、明日には死ぬかもわからない、明日に死なずとも数か月後数年後に死んでいるかもしれない不確かさの中で、未来を信じて主体的に行動する勇気を選ばないと、人生負け戦になってしまうのである。
死を想え、そして、今日この一日を大切に生きよう
あらゆる現実を直視し、肯定するところからしか本当の人生は始まらない。
現実逃避し続けても受動的に人生を導いて行ける女メンヘラとは違い、男メンヘラは、現実逃避し続けると人生ドブ捨てだ。
何億の精子と何百万の卵子の驚異的な確率で誕生した我々の奇跡の人生を、幸福で価値のあるものにする覚悟を決めたなら、もう誰も頼れないからこそ生まれる境地にたどり着くことができるだろう。
人生配られたカードでしか戦えない。
人生に強くてニューゲームも転生もない。
男に生まれたなら、やはり主体的に自分の人生の舵を取らないと、不満足な豚のまま死んでしまう。満足な豚にも不満足なソクラテスにもなれない。
明日死ぬなら今日はやりたくないことをやらない、そこから自分が生まれてくる。
もう疲れた、疲れはてた。
その先にも延々と人生は続いていく。
死ぬまで疲れるものだと思って進むしかない。
最後までフルマラソン。
その果てに、自分固有の人生の軌跡が描かれ浮かび上がる。
お盆こそ、人生はあまりにもはかなく、あっという間に人生が終わることに思いをはせる。
Memento Mori、そしてCarpe Diem。
死を見据え、今日この一日一日を大切に生きる。
まず原理思想が先立つのではなく、行動が心理を変える。
しょせん人間も生物でしかない。
物質と化学反応の総合芸術にすぎない。
灼熱の真夏でも、他人なんてあてにならないものを気にせずに、ひたすら己の野望のために、動き続けるしかない。
死を想えば想うほど、生もまた輝きを放つ。
宜しければ人生サポートお願いします。記事書きます。