見出し画像

人付き合いすら面倒なのに、究極の人付き合いである恋愛は、男性にとって性愛以外のメリットはあるのか?

恋愛は別れるのにも非常に労力を使うし、付き合うまでにも男性側は非常に労力を伴う苦行である。
結局のところ、孤高と称して、1人でずっと思索し生きてきた人間が踏み込んで良い世界ではないような気がしている。

最近、恋愛活動をして、付き合って、別れまで至ったこの一連の流れを体験したのであるが、だからこそ、やはり恋愛というのは、どうやっても男性にとっては、性欲を満たす以外の価値があるようには思えないのであった。

好きという嘘は最強の武器

そもそも他人を好きになる感情なんて、小6で消え失せてしまったからこそ、好きという感情がわからないまま、女性心理を忠実に満たし、毎日気持ちが離れていないことを言葉で表現して偽りに近い「好き」と言いながら恋愛しても、最近流行した推しのアイドルの子に転生した漫画みたいに、誰かを好きになることなんてわからないまま、性欲もしくは結婚というリミットを突きつけられて、内発的開花ではなくて、外発的開花で恋愛活動に勤しんでも、俺の人生や俺自身にメリットがない気がしてならないのであった。

これは筆者が生来もつ、発達障害や自閉症的気質が関係しているように思うのだが、そういう運命ならば、無駄に関わる必要もない人生のイベントの一つでしかないような気がしているのである。

つまり全てを他人の期待に合わせて生きてきたような「わざ、わざ」と見抜かれるのを恐れる道化のように、本心を隠して生きてきた人間、それもアラサーまでそう生きてきた人間にとって、恋愛活動もまた、お道化が必要で疲れる。

人間交際の全てが道化だから、そもそも誰とも関わりたくないという感情がずっとあったのである。

そこで女に合わせて性欲を満たしたいとか子供を求めるという目的のために、好きでもないのに好きや愛してるといいスキンシップをして、男の方が金銭を多く負担して、デートコースやプレゼントを考えて、女に時間と金をかけることで女は満足すると知っているからこそやることも、全てが虚無な気がしている。

偶像を“推す“のと、現実の他人を愛することの差異

つまりは自分以外を愛せないというか、自分すら愛せない中で、他人を愛せるとはどういう感情だろうか。

確かに昔は、アニメゲームの二次元美少女やアイドルみたいな、架空や虚像の存在を推していたり、好きになったりとか、そういうムーブをしていたことはあった。しかしそれは恋愛といった深い関係性になる、人間関係が親密になることを目的とするよりは、バーチャルキャバクラのような理想の美少女をただ遠くから眺めて「尊い」といって見ているだけ、美少女動物園と呼ばれる美少女がたわいもないおしゃべりをするだけのアニメを見ている時のような気の抜けた気分である。

そこにただ1人の他人と親密な関係を築く覚悟みたいなものは登場しない。
だから楽なのだ。

例えば、人から好きになってもらって、それでも別れるという決断も、する時がくる可能性があるからだ。

どんなに好きだという感情を持ってしても、他人である以上は必ず嫌なところや改善して欲しい所、気に入らない価値観や言動、属性やスペック、家柄や生育環境がある。
どんなアイドルやアニメの二次元美少女でも欠点やダメな点がある。
それを愛するというのは結局のところ、自分の欠点をも愛している、自分が良い所も悪い所も統合された一つの個体として捉えているということにつながる。
それができていない内は、つまりは人間のレベル、人間力がある程度達した状態でないと、他人と深い親密な関係を継続するということは、苦痛の方が大きいように思う。

対人関係自体にデメリットを上回る快感情を得られなければ、半歩降りた方が良い?


究極のところを考えていくと、自分自身を愛する気持ち、自尊心がないと、恋愛をはじめ、あらゆる対人関係の困難をきたすのである。

それがある程度のグラデーションがあれど不完全な者は、それに類似した人間と関わることになる傾向が強いだろう。嘘と嘘のぶつかり合い。

その中で嘘が本音や真実に向かうこともあれば、そうでない場合もあり、人間レベルの低い人間は、そもそも対人関係を人生のリソースから減らした生活ができるように立ち回った方がいいのかもしれないと思っている。

少なくとも今の筆者にとっては、性愛を犠牲にしても、恋愛活動、恋活から半歩降りる、という選択をするのが、自分のアイデンティティを守り、自分らしい人生として考えた時に、最善解なのかもしれない。

秋の空を見上げつつ、ふと、そうした結論に辿り着いたのであった。。。



宜しければ人生サポートお願いします。記事書きます。