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第1回 続「本を売る」ことに魅せられて 

 2010年(平成22年)7月、丸善株式会社に入社して、2年5ヶ月が経ちました。この時、僕は丸善お茶の水店の店長をしていました。まもなく中間決算を迎えるタイミングです。この間いろいろなことにチャレンジしてきました。小城武彦さん(社長)直轄の新業態開発本部返品率削減室を、僕は兼務し、低返品率のモデル店として、お茶の水店で実践してきたことを、各店舗へ拡げる仕事もしていました。
お茶の水店の返品率は、この時17%でした。僕は、業界紙『新文化』の「レジから檄」の連載で、そのノウハウの一部を披露していました。

『新文化』2010年(平成22年)1月7日
日本経済新聞 2010年(平成22年)3月27日
「揺れる出版ー下」
写真 丸善お茶の水店の返品率ボード


 やがて業界紙のみならず一般紙の取材もあり、当時、帳合の日販(日本出版販売株式会社)の各支社も、お茶の水店を見学に来ました。
また他書店チェーンの本部の方からも連絡をいただいたりしていました。
こうした広報的なことを社長の小城さんも喜んでくれていたのです。

丸善の分社化

 そんな矢先、丸善株式会社が分社化されることが発表されました。
時系列で書くと、まず2010年1月に丸善株式会社の上場が廃止されました。そして、丸善と図書館流通センター(TRC)の共同持株会社であるCHIグループ株式会社(現在の丸善CHIホールディングス株式会社)が上場しています。社長は、丸善の小城武彦が兼任していました。
そして、今回は第二形態と言うのか、店舗事業部が丸善書店となり、出版事業部が丸善出版になるなど各事業部ごとに丸善が分社したのです。

 その分社化により設立された丸善書店の社長に、ジュンク堂書店の工藤 恭孝が就任したのです。

 ちなみに2009年3月に大日本印刷がジュンク堂書店を買収していますが、2010年のこの時、ジュンク堂書店はCHIグループ株式会社の傘下になっていません。

 その頃、僕は7月10日(土)に開催される「本の学校出版産業シンポジウム」の準備もあり、忙しい日々を送っていました。

 本の学校は、鳥取県、島根県を中心に展開する今井書店グループの事業として、1995年に開校されました。(のちにNPO法人として独立)また1995年から5年間にわたり、鳥取県大山町で開かれた「大山緑陰シンポジウム」には、多くの書店人、取次人、出版人が集まりました。その後、場所を変え、2006年からは、東京国際ブックフェアの会場であるビックサイト(国際展示場)に場を移して「出版産業シンポジウムin東京」として引き継がれました。

 僕は、米子で毎年開催された「出版業界人研修 基本教育講座」(通称:春講座)にて、講師として3年間ご縁があったことは、第16回「本を売る」ことに魅せられて で紹介したとおりです。

 その後は、日本書店大学の事務局として、シンポジウムの企画や運営のお手伝いをしていましたが、今回は、久しぶりに登壇者として参加いたします。

電子書籍元年

 この年、2010年は、「電子書籍元年」と呼ばれて、KindleやiPadをはじめ日本の電機メーカーも、競ってハードウェアの発売をリリースしたり、五木寛之の『親鸞』が電子で試し読みできたり、京極夏彦の『死ねばいいのに』(講談社)が紙版と電子版が同時発売されるなどデジタル化が話題となった年でした。

 本の学校出版産業シンポジウム2010は、「出版デジタル化の本質を見極める」をテーマに掲げて、メインセッションと4つの分科会を企画。
僕は、コーディネーター仲俣暁生氏(編集者・文芸評論家)パネリスト樺山紘一氏(印刷博物館)パネリスト太田克史氏(講談社・星海社)と一緒にパネリストとして、メインセッションの「本の消費現場で何が起きているのか?」の壇上に上がったのです。

 樺山紘一先生は、東大名誉教授であり、この時、印刷博物館の館長でした。
また第6回「本を売る」ことに魅せられて
でも紹介したとおり、アナール派の古典的名著『新しい歴史〜歴史人類学への道〜』(新評論1980年刊  藤原書店1990年新版刊)を翻訳したのも樺山先生です。

 後日、丸善の本部に行った時に西川 仁さんは「樺山先生と草彅さんが同じ壇上にいる!」と、びっくりされていましたが、それは、こちらも同じで、学生の頃から憧れていた大先生とご一緒するとは、まさかまさかの展開だったのです。

2010年7月10日 東京ビックサイトにて

 また講談社の太田克史さんは、文芸誌『ファウスト』や『講談社BOX』を創刊するなど講談社最年少部長であり、この夏、講談社が出資する星海社の代表取締役副社長に就任する若手編集者です。※現在は、代表取締役社長

 そして、コーディネーターの仲俣暁生さんは文筆家であり、『マガジン航』発行人兼編集人。僕と年齢は一緒ですが論客の文芸評論家として有名でした。
そして、時代の先をいく出版人です。
近著は『橋本治「再読」ノート』(破船房)

『ポスト・ムラカミの日本文学』を上梓しています。

 このような三人とのパネルディスカッションは楽しいに決まっています。

 この日、ビックサイトの会場には、600人が詰めかけていました。だけど壇上を照らすライトが眩しく、正面に座っている客席の人の顔は、よく見えませんでした。視線を左に移すと、にこやかに笑っている CHIグループ株式会社社長の小城武彦さんの姿を見つけたのです。

 シンポジウムは、仲俣さんの第一声からはじまりました。

仲俣──出版業界のキーパーソンの皆様をお迎えし、「本の消費現場で何が起きているのか?」と題しましてお話をいただきたいと思います。
 今日のパネラーのお三方が一堂に会してお話されるのは非常に珍しいことで、これまでもなかったし、たぶんこれからもなかなかない組み合わせだと思います。今年のブックフェアの最大のテーマ、話題は電子書籍です。メイン会場のほうではiPadとかキンドル、iPhoneをお持ちの方が多いと思います。本当に大きな出版メディアの変革の時期に"これからの本のことを考える"うえで一番大事なのは歴史的な示唆だと思います。
 今日、印刷博物館館長の樺山先生にお越しいただいたのは、いま目の前で起きている本の大きな変化というのは、では、過去はどうだったのか。つまり、活字ができる前とできた後でどう変わったのか、あるいはもっと昔の時代はどうだったのか。しかもそれは本を作る側がどう変わったのかというだけでなく、消費、つまり読者、本を読む人の本との関わりがどう変わってきたか。長い歴史のスパンでものを見てみたいという思いからです。
 講談社・経営企画室担当部長の太田さんは、これから非常に大変な時代だと言われている出版の世界に、講談社の100%子会社という形ではあるけれども、星海社という新しい出版社を立ち上げて船出していかれる。そこで未来に向けてどんなことを考えているのかをお話しいただきたいと思います。
 丸善お茶の水店店長の草彅さんには、書店現場の第一人者として非常にユニークなプロデュースをされている立場から、書店という場所がこれからどういう形で読者と本を結びつけていくのかをお話しいただきたいと思います。
 最初に樺山先生にお話を伺いたいのですが、先生のお書きになられた『新・現代歴史学の名著』(中公新書)という本があります。この本は樺山先生が編者であると同時に原稿もお書きになっておられますが、その中で最近亡くなられた梅棹忠夫さんの著作について触れられています。それをご紹介いたたくことからお願いします。

梅棹忠夫を偲ぶ

樺山──いま司会者からお話がありましたとおりに、梅棹忠夫という著名な文化人類学者がつい最近亡くなられました。九〇歳。昔から非常に有名な方で、まだ九〇歳なのかという感じがいたしますけれども、たいへん惜しいことをいたしました。また新聞その他でもいろいろなことが語られました。
今から四〇年ほど前、私は京都大学の人文科学研究所というところで助手をしておりました。梅棹さんは、そのときにそこの教授をしていました。私は直接の教え子ではなく、直接下で働いたわけではないのですが、まあ斜め下ぐらいで働きまして、七年間梅棹さんとご一緒にいくつか仕事をさせていただきました。その梅棹さんが亡くなったということで、私は本当に気分が暗いんですが、梅棹先生はたいへん大きな仕事をなさった方であります。私も世間一般よりは、多少近いところで梅棹さんを見てまいりましたので、本人についてはいろいろと思い出がありますが、今日は二つの思い出を語りながら、本に関しての問題提起をさせていただきたいと思っています。
一つは、梅棹さんはたいへんお気の毒なことに、六一歳のときに中国で視神経にウィルスが入り、ほとんど失明状態になられました。それから三〇年間ほとんど物が見えない。多少見えているようで、都合の悪いときだけ見えないんですが、とにかく本当にお気の毒でありました。でも本人は「目がほとんど見えなくなって雑音が減った。そのお陰で十分に本を書いたり読んだりすることができるようになった」と。もちろん本は直接読めませんが、秘書の方が読み上げて、また本を書くときは口述筆記でお書きになっていた。
特に六〇代を超えてから八十数歳に至るまで一ヶ月に一冊ずつ本を書いておられたと思います。本を書いたというか、つまり刊行しておられた。月に一冊ですよ。私たちは一生懸命書いても年に一冊ぐらいですが、月に一冊出まして、周辺の人たちが"月刊梅棹"という名前を付けました。月刊誌を出しているようなものだということです。実にたくさんの本をお書きになりましたし、またお読みになった方はたくさんおいでかと思いますが、梅棹さんの本は非常に分かりやすい。仮に自分で読まなくても読み上げてくれれば十分に理解できるという、非常に平易な文章をお書きになります。昔からそうだったんですが、本は読み上げて耳で聞いても十分理解できる程度の難しさ、梅棹さん流ならば「低難度でなければいけない」と。いつもそう言っておられました。
 梅棹さんは確かに日本でもたいへん大きな影響力を持ちました。一九五七年に「文明の生態史観序説」という有名な論文を書かれて以来、非常に大きな影響力を持ってきた大きな理由の一つは、ともかく梅棹さんの書物が、あるいは書くものが極めて平易で,基本的に誰でも理解できるということを念頭に置いていたからだと思います。
研究者であって、自分の研究成果を発信するというのが本来の役割ではあるけれども、しかしそれは世間の人が、普通の人が、隣のおじちゃんが読んで分かるような文章でなければ社会に発信したということにはならないというのが、梅棹さんの早くからの信念であります。そして"月刊梅棹"というわけで、最後の三〇年間は実に平易な言葉で発信しておられます。研究者、あるいは学者その他、物を書く人間にとって社会に発信するというのは、こういうことなんだということを、私たちは周辺にいてたいへん強く教えられたと思っております。
二つ目の思い出は、とりわけ若い研究者、私と梅棹さんはニ〇歳以上も違うんですが、その若い研究者をつかまえて、「君たち、本を読み過ぎる」、「本を読み過ぎるからバカになるんだ」、「本は最小限でいいから、むやみに読むな」、「特に本を読んで、そこから引用したり、そこで使われている概念を使うというのは最悪だ。だからバカになるんだ」などと言われたことです。本はなるべく減らせ、本をたくさん読むな。その代わり現場に行って歩け、それから自分の頭で考えろ。本を読み過ぎると自分の頭で考えなくなるぞ、歩かなくなるぞ。だからなるべく歩け、現場で歩け、そして現場で自分の頭で考えろと言い続けました。
 私たちは「本当に君たちは全然考えていないぞ」と憎まれ口を言い合っていました。でも、確かに私たちはついうっかり本を読み過ぎることでもって、適切な発言の仕方を忘れたり、あるいは人の考えたことをまるで自分の考えであるかのように言ってみたり、そうしたことになりがちです。ですから、とりわけ若い研究者は本を読み過ぎるな、月に二〜三冊で十分だ、それ以上読むとバカになるぞとおっしゃられたのでしょう。
なるべくそれに倣おうとしたのですが、おかしいかな、私は歴史家ですから本に寄りかかって仕事をしており、言われるとおりにはならなかったけれども、このことは研究者に対する的確なアドバイスです。事によると研究者ばかりではなくて,現在生きている人間の生き方を考えるうえでも、たいへん大きな指針ではないかなという気がしております。

書を捨てよ、町へ出よう

樺山──その直後に、「書を捨てよ、町へ出よう」(寺山修司)という有名なタイトルの提言がありましたけれども、たぶんそれ以前から梅棹さんは、そしておそらく彼だけでなく周辺にいる人たちは、本をなるべく少なく読むこと、少なく読んで済ますようにしなさい、それが研究者の知恵だと言われていた。そうかもしれないなと思いました。
先ほどご紹介いただきました、中公新書『新・現代歴史学の名著』という本が、いま本屋さんに並んでいますけれども、その中で私も梅棹論を書きました。そのことについては触れませんけれども、でも、やはりこれから本は大事だ。もちろん本がなければ私たちは生きていけないし、私自身も本を書いて暮らしてきていましたので、本をやめると言われると困るけれども、でも、本を書くのなら研究者、あるいはものを考えた人間の発信の形として、梅棹さんは「隣の豆腐屋のおばさんが・・・」と言いましたが、普通の方々が平易に読むことができるようなものを書き、自分はなるべく本を読むのを減らそうではないかと。梅棹さんの一生を見ておりまして、そうすることでもって頭を使い、足を使い、こうやって歩んだんだなということを、いまでも痛感しております。そう言っても,本をやめようと言っているわけではなく、これからの本をどうしようという話を今日はさせていただくつもりです。

仲俣──ありがとうございます。きょうのシンポジウムの話題として最適なお話をいただいたと思います。まずなによりも梅棹忠夫さんという"知の巨人"、読者としては偉大な著作者、学者というふうに感じていたわけですが、やはり身近に接していらした方のお話を聞くと、非常に生々しいその人の、本だけでは得られない考え方なり、人となりが非常に迫ってくる気がしました。やはりお話の中で一番印象深かったのは、「本を読み過ぎるな」という話と、本自体だけで本のことを考えてもだめだということでした。
 おそらく会場にいらしている方の多くは本が好きで、本をたくさん買って読む方だと思います。ただ、世の中には"ブッキッシュ"という言葉がいい意味でも悪い意味でもあって、本の中だけで閉じて考えてしまっているところがあると思います。
 これは良し悪し両方あるんですが、例えば太田さんは小説、文芸の編集者として本当に生々しくたくさんの作家の方と会っていらっしゃると思います。フィクションの世界の中で、本の中で閉じているという面もあると思いますが、いまの樺山さんのお話を聞いて何か思うところがありましたらお願いします。また星海社についてもご紹介いただければ幸いです。

本は魂の食い物

太田──本を読むなというところがすごく印象的でした。よく「どんな本を読めばいいのか分からない」とか、そういう質問を受けます。あるいは、本の感想を検索していたら、「こんなひどい本を読んで本当につまらなかった」。そんなことしか書いていないブログを皆さんもよく見ると思うけれども、そうしたことがなぜ起こっているのかを思ってみるとき、「本は魂の食い物」だという、私が敬愛する『モーニング』という漫画誌の初代編集長の栗原良幸という講談社の人間が残した言葉が浮かびました。いまの読者の中には自分で自分の食べ物を決められない人が増えてきたのだろうか。よく他人がおいしそうに食べている物を見て、あれをくださいと、そういう食べ方をしている。しかし、それは自分の魂に合った食べ物ではないわけで、おいしくない。ではほかのものを読んでみようと思うときに、やはり自分で選択しないと、いくら読んでも自分の考え、自分の人生に役立つような本にはめぐり合えないのかなと。
 梅棹さんの言葉にあるのは、自分で自分の魂の食い物を、何を食べようかを自分で決めようということかなと感じます。そう考えたとき、講談社から一〇〇%の出資を受けて、営業出身の杉原幹之助という人が社長になって、編集のぼくが副社長になって、新しい「星海社」という出版社を立ち上げるにあたり、「どれだけ多くの読者にとって、これを食べてよかったと思えるような魂の食べ物としての本を作り出していける」か、それが使命という気持ちになっています。

仲俣──食べ物の例えというのは、結構、本と近いと思うんですね。例えば出版業界は、この一五年間ずっと市場としては縮小して景気が悪い、出版不況だと言われていますが、しかし同時に本の点数は増えていて、どんどん大量生産、大量商品化しています。これは食べ物のファストフード化と似ている面があって、もちろんそれの良い側面もあると思う。やはり安く手軽に本が手に入るということは、本の大衆化に非常に寄与している。本が手に入りにくかったものから、どんどんアクセスしやすくなっていく。これは非常に良い面だと思いますが、同時に、どんどん作られて、どんどん本当の意味で読まれずに、読んではいるけれども栄養にならず、魂の栄養にならずに廃棄されていくという面もあるわけです。
 草彅さん、本を売る現場は一番読者に近いところですが、日々大量の本を目の前にして、それが本当に魂の食べ物になっているのか、あるいは求める人に届いているのかどうか。お二方の話を受けてお話しいただけますでしょうか。

書店が自分の意志で本を選ぶ

草彅──今、樺山さんからも、適切な発信の仕方を忘れているのではないかというお話がありましが、私たち書店も、例えば文庫は文庫の売場、新書は新書の売場、単行本は従来の図書館分類的なカテゴリーに分けて置いている。それでいままでは本が売れていたが、それだけではもう読者に伝わらなくなってきているというのが現実だと考えています。
仲俣──そのために丸善が、草彅さんが書店の店頭で工夫している方法は何かありますか。
草彅──出版の点数というのが年々増えていて、いまでは一年間に約八万タイトルぐらいの新刊が出ているという状況です。丸善のお茶の水店の場合、売場がニ〇〇坪しかないのですが、そのニ〇〇坪の売場にどのくらい蔵書があるのかというと、約八万タイトルです。ですから一年間に出る日本の出版物と同じ点数しか収まらないというのが現実なんですね。ということは、新刊すべてを受け入れていると、一年で棚がすべて入れ替わってしまうことになりますから、そのような品揃えというのは現実的ではないわけです。
 そうなると私たちは結局、本を選ばなければいけない。セレクトするということが仕事になってくるわけです。出版流通の現状では、書店が自分の意志で本を選べる可能性というのは極々わずかであって、いわば書店というのは商品を選べない商売であるといふうに認識しています。

 さて90分間のシンポジウムは、まだ始まったばかりですが、今回は、このあたりで、終わります。

つづく

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