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I AM NOT YOUR NEGRO

はじめまして、くさむらです。はじめてのnote投稿がこの作品になるのに特に深い意図はありません。今後ともゆるりとお付き合いください。

さて、今回鑑賞したのは2016年に公開された「I AM NOT YOUR NEGRO」(邦題:私はあなたのニグロではない)です。アメリカの執筆家ボールドウィンの未完成原稿「Remember this house」と、多くの写真・映像資料を元にしたドキュメンタリー作品になります。

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映画は好きでよく観ますが、ジャンルとしてドキュメンタリーはあまり観ません。ただ先日現代思想で「Black Lives Matter」の特集号を読み、その中でも触れられていた作品で少し気になっていました。今回は90分ほどの作品だったので、観てみようということになりました。

淡々とした語りと鮮烈な映像

いや、面白い。

よくできた本を読んでいるような盛り上がりがありました。セクションごとに印象的なタイトル映像が挟み込まれる以外は、何か特別な編集がなされているわけではありませんが、心を強く惹く作品でした。

50年代中頃から60年代終わりにかけてアメリカで盛り上がりを見せた公民権運動の中心にいた、キング牧師・マルコムX・メドガーの三者とボールドウィンとの関係性を中心にして、当時の黒人が置かれていた「社会」というのものをサミュエル・ジャクソンの淡々とした語りが明らかにしていきます。その語りはボールドウィンの冷徹な眼差しを代弁しているかのよう。

また時折挟まる30年代から70年代にかけてのハリウッド映画のカットは、シーンごとに違った顔を見せます。時には白人の優位性を際立たせ、時にはBLMが明らかにしているような白人が抱える不安を浮かび上がらせ、時には娯楽という名の下で黒人が「求められる黒人像」を演じていたことを鋭く指摘します。

本作では登場しませんでしたが、最近話題になっていた「風とともに去りぬ」は奴隷制の残る南部地域の当時の情勢を如実に反映していますし、2018年に公開された「ブラック・クランズマン」でも、当時のB級映画には白人の汚職警官を成敗する黒人警官というステレオタイプがあったことが遠回しに触れられるなど、ハリウッド映画と黒人はきってもきれない関係にあります。

そして冒頭のドロシー・カウンツの写真やワッツ暴動など、当時の黒人を中心として巻き起こった様々なセンセーショナルな事件を、一枚の写真で、色付きの動画で、紹介していきます。WHO NEEDS NEGROと書かれた看板をもつ青年、嘲笑われながら学校へ向かう一人の少女。たった50年前に海の向こうで起こっていたというその事実が、差別の一言では片付けられない何かが、心を強く打つのです。

そのほかにもテレビ番組で「大量消費社会という世界」において、これからの成長が見込める消費者としてのみ黒人が受け入れられたことが浮き彫りにされるなど、一つ一つの映像や写真が無駄なく主張を重ねてきます。

絵に描いたような詭弁

映像と写真とを交互に繰り返し、取り扱う内容とは裏腹にゆるやかな展開を見せる本作品に、ボールドウィンが出演した討論番組にリベラルを装った白人の教授が出てくる印象的なシーンがありました。彼は出てくるなりこう言い放つのです。

裏で聞いていたが、彼(=ボールドウィン)の意見には反論がある。もちろん多くの部分で賛同するがね。

続けて彼はボールドウィンがむやみやたらに人種を持ち出して、ありもしない分断を生んでいると弾糾するのです。色んなやり方で人と人とは繋がっていける、自分は無学な白人よりも教授の黒人の方がシンパシーを覚える、どうしてボールドウィンは肌の色にこだわるのだと。

BLM運動でもWHITE LIVES MATTER(=白人の命も大事だ)といったスローガンがささやかれていたそうですが、これは詭弁です。ALL LIVES MATTERなのは当たり前です。そこに人種も民族も国も地域も性別も何もないのです。BLACK LIVES MATTERのスローガンが意味をもつのは、生命が大切にされる尊重される、当たり前のことが今まさに守られていないことを明らかにするからです。

その教授はまさにWHITE LIVES MATTERと嘯く人と同じです。明らかに社会を覆っている暗いベールに目を向けもせず、自分の色眼鏡に映るものだけをみて虚飾の世界を主張するのです。問題を直視せず、論点をすり替えて、自らの地位にあぐらをかいて言うのです。「どうしてそんなに焦ってるの?」

教授に対するボールドウィンの反論も見事でした。同じものを求めても白人と公人とでは全く違った努力を強いられるこのアメリカという国において、そんなidealismに満ちた理想郷がどこにあるのだと喝破します。そこまでの映像に出てくる彼とは打って変わって早口になり、怒りをむき出しにするその姿は、終始冷静だった彼の中の熱意の表れだったのでしょう。ナレーションでも語られてたように熱意が世界を変えてきたのです。

BLM運動に重ねて

ボールドウィンは最後にこう言います。

私はあなたのニグロではない。白人がニグロを必要としているのだ。その理由を問えるようになって初めて、何かが変わるかもしれない。

と。これはまさしくBLM運動が盛り上がるアメリカ社会において幾度となく指摘されていることでもあります。

トランプが何度も口にする「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」は、これまでヘゲモニーとしての地位をほしいままにしていた欧米白人男性社会が、ここ10年で大きく揺らぎつつあることの証左に他なりません。中国の台頭、グローバリズム/フェミニズムなどの大きな世界的思想潮流の変化の中で、これまで白人男性が自らの外に仮想敵である黒人や女性を置くことによってその圧倒的な地位を保っていたことが明らかになっているのです。

だからこそ彼らは猛烈に反対するのです、その特権的階級が失われつつあることへの恐怖心から。

最後に

終始穏やかな口調から語られるナレーションは、ボールドウィン自身の経験からくる静かな怒りを再現し、鮮烈な映像との対比によって観客に聴かせる力をもっています。

「自由と勇敢の国アメリカ」。誰が言い出したか分からないクソったれた標語に何度も唾を吐き捨て、悲観的になるのではなくあくまでも希望を信じて、冷静にアメリカを見つめるボールドウィンの「まなざし」は、繁栄の裏にある何百万もの人を知っているからなのでしょう。

情熱によって世界は変わる。そう信じて動き弾圧されそれでも抵抗することをやめないマイノリティの「表」では、unthinkingなマジョリティが大手を振って闊歩しているのです。

先人が考え行動した歴史は、われわれが生きるこの今、過去のものとなるのか現在のものとなるのかは、ボールドウィンが言うように、その理由を問えるようになってはじめて決まるのかもしれません。

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