中高生からの人文学 その12
5-5. note執筆の動機
5-5-1. 人文学を分かりやすく
私がこの本を書いた動機は、人文学について各分野の概要を説明するのではなく、人文学全体をまるっと分かりやすく説明するような本やみなさんの生活に引きつけて書かれた本がほとんど見当たらないことにありました。人文学を「分かる」「実感する」ことに重きを置くことは実践されてこなかったと言っても良いでしょう。
一方で人文学の各分野について解説した本は文字通り山のようにありますし、その中には私個人としても読むことを他の人に勧めたくてたまらなくなるような良い本が大量にあります。
ですが一年で約七万冊が出版される日本において、本を全て読むことは不可能ですし、目ぼしいものだけ読んだとしても時間は全く足りません。
そこで重要になってくるのが皆さんが抱えている興味と違和感です。
本が多すぎて選ぶのに迷ってしまうときに道を照らしてくれるのは、他でもないそういったみなさんの疑問です。前章で紹介したように、身の回りからそうした疑問を少しずつ解きほぐしていくことは、何も大学生にならずとも、中高生のみなさんにだってできることなのです。
スマホで調べてみる、関係のありそうな本を読んでみる、友人に話をしてみる、図書室に相談しにいく。そして通ってきたその道は誰のものでもないみなさんだけのものになります。
5-5-2. ぶつかりあうこと
あなただけの道を大切にする姿勢が人文学にはあります。あなたの自分らしさと他の人の自分らしさがぶつかり合うことによって、色々な考え方が産まれていきます。
ぶつかり合う瞬間は刺激的ではありますが、慣れていないと自分を否定された気になるかもしれません。自分らしさをぶつけ合うことは意見交換や議論と呼ばれたりしますが、そこには相手を傷つけないためのお作法というものがあります。
こうしたお作法の多くは日本の義務教育では教えられる機会はほとんどありませんし、そもそも自分らしさをぶつけ合うことは避けられてきたはずです。もしかしたら自分らしさをぶつけることはワガママだとか良くないことだと、教えられた人もいるかもしれません。
ですが議論はジブンを通して他者をみる、他者を通してジブンを見る絶好の機会のはずです。ジブンと他者とが決定的に異なることを議論を通じて確認し、他者の考え方・置かれた状況を自分のものにしていく過程は他では味わうことは難しいものです。
一点気をつけることとして議論においては意見の否定と人格の否定とは本来切り離して考えるべきですが、自分の意見が否定されることで自分の全てが否定されたようになってしまうのは悲しいかな多くの人に共通する事実です。
欧米における教育ではこの辺りの住み分けがキチンと行われているそうですが、どのようにして折り合いをつけているのか私自身気になるところではあります。いずれにせよ意見の否定を自分の否定と捉えないようにしていく試みは繰り返していくべきですが、少なからず感情に直結する部分があるためなかなか難しいかもしれません。
まずは信頼できる人と、些細な内容で議論していくのが良いのではないでしょうか。「大学に行くべきかどうか」といったシビアな議題よりは、「ごはんに合うおかずは何か」くらいの議題から始めて、議論の練習を積んでいくのがおすすめです(ごはんに合うおかずを決めることが些細な問題と言っているわけではもちろんありません、非常に重要な論点です)。
また自分と異なる意見に対して、無理に受け入れる必要はありません。まずは意見をただ受け止めてみる。もし自分にとって参考になる視点があって始めて受け入れるくらいの姿勢でいた方が楽に議論に望めると思います。
5-5-3. ディベートとの違い
また議論は意見が異なる人同士が互いの主張の違いを乗り越えて、一つの大きな結論に達することを目的とするのに対して、ディベートは賛成か反対かいずれかの態度を強制的に取った上で相手よりも正当だと聞こえる主張を行う一種のスポーツです。
そのため議論にはない勝ち負けという要素がディベートには含まれています。ここをごっちゃにしてしまい、議論の目的を相手を言いまかすことに設定してしまうと悲しいことになってしまうのは想像に難くありません。議論はあくまでもよりよい結論にたどり着くため、そして他者の意見をジブンごとにするための手段で、ディベートはそれ自身が目的です。
議論をする中で気付かされることは非常に多いです。同じ議題をめぐって全く異なる意見に着地する人、結論は同じなのにそこに至るまでの思考過程が似ても似つかない人、非常に感覚的な意見を見事なまでに言葉にする人。十把一絡げにして、他者と呼んでしまうことをためらわせるものがそこにはあります。
是非議論で本当の意味での自分らしさを見つけ、正しいお作法に則って他の人とぶつかり合っていただければと思います。自分のなぜが他の人のなぜの上に成り立ち、そして逆に他の人のなぜが自分のなぜの上に成り立つといった状況はまさに、人文学の軸をなすものだと言えるでしょう。
5-5-4.メタ知識
そして最後に少しだけ難しい話をします。ここまで話してきた人文学に関する知識は、全て「メタ知識」と呼ばれるものです。
一方で『ボヴァリー夫人』がフロベールによってどのような時代背景の中で書かれたのか、縄文海進が起こった結果古代日本において居住区行きの分布が内陸部に移動したことなど、教養を謳った本にしばしば登場するそういった知識は人文学における個別具体的な知識であり、良い研究を行う上では欠かせないものであると同時に、悲しいかなそれだけでは私たちの日常生活にはあまり役に立たないものでもあります。
もちろんクイズであったり、人との話のタネになったりと全く活用できないというわけではありません。そうした人文学の知識が役に立つ・当たり前になる社会が来るかもしれません。
では「メタ知識」とは何でしょうか。詳細な説明は辞書や専門の本に譲るとして、私が思うにメタ知識とは歴史学や民俗学や日本文学など、学問の特定の分野だけに当てはまる知識というよりはむしろ、広く人文学一般、さらには学問一般に適応されるような知識のことです。
つまり人文学における「メタ知識」とは、まずは人文学のディシプリンに関することであり、何よりもこれまでお話ししてきた「ジブンごとにする態度」です。そうしたメタ知識をもとに日々人文学の分野では探求が行われています。
さて、なぜメタ知識の話を始めたのかというと、人文学に関する知識とメタ知識の関係に似たことは今中高生のみなさんにも言えるからです。中学校・高校における日々の勉強は、もちろん大学受験に合格するために知識を身につけるものであることは間違いないのですが、それ以上に「勉強するとはどういうことか」という知識を身につけるためのものに他なりません。
例えば日本史の年号を暗記するのが自分にとって効率が最もいいのか。公式というものがどうして必要なのか。どのようにして私たちは新しい情報を頭の中に取り入れていくのか。このようにテストで点を取るためには直接的には関係ないけれども、勉強に関して一歩引いた目線から捉えた知識のことをメタ知識といいます。
5-5-5. 人文学とメタ知識
人文学に関する「メタ知識」は今中高生のみなさんにこそ是非身につけてもらいたいものなのです。それは学校での勉強を面白くすることに始まり、今後の勉強における姿勢を変化させ、人生を間違いなく豊かにします。
例えば物理の教科書の最後は原子の話ですが、化学の教科書は同じく原子の話から始まります。そしてその化学の教科書は有機化合物・高分子化合物の話で終わりますが、生物の教科書はまさにその話から始まります。
このように物理→化学→生物といった大きな流れがあることに気がつきます。全ての大元となる物理現象の記述を理解することで、化学や生物への橋渡しが上手く進むかもしれません。そのように全く異なった教科の知識が繋がって見えるようになることもメタ知識の成せるわざです。
またメタ知識に関連したこととして、学びに終わりはなく、そして学び方にも絶対的な正解はありません。しばしばYouTubeやテレビなどで効率の良い勉強法が紹介されていますが、自分にあった勉強法を選ぶのがまさに「メタ知識」習得の過程です。
教科書を一通り読んでみる、自分でノートにまとめなおしてみる、単語カードを作成してみる。どの勉強法が自分に一番相応しいかを検証する過程を抜きにして正しい勉強法の習得はありません。紹介されている全ての勉強法はある人にとっては正解であり、また別の人にとっては不正解でもあります。
何を学ぶためにどのような手段を取れば自分に一番しっくりくるかを見つめることは、他でもなく勉強や学問をジブンごとにすることです。全てを自分に引きつけて考えること、それが出来るようになれば、勉強法は実は些細なことに過ぎません。
もし大学に進むとしても理系・文系の枠組みを超えて自分のやりたいことを見つけられると思いますし、就職を決めたり専門学校に行くとしてもその中で自分のとるべき行動が何となく見えてくるはずです。
ジブンごとにする、人文学の基礎をなすその態度がみなさんの人生の支えになることを願って筆を置きたいと思います。