人がいなくなること
と、意味深なタイトルを掲げてみたが、内容は昨年観ることを自分に課していたCLANNAD(およびAfter Story)の感想記事である。
「CLANNADは人生」
その言葉があるものをPCへと、あるものをテレビへと駆り立てた。
全48話の視聴を終えて、確かにその言葉は間違いなかった。
けれど、少し思っていたのと違っていた。そこから話をはじめたい。
一度振り返ろう
観たのが既に数ヶ月前なので、思考の整理も兼ねてざっくり内容を振り返りたい。といってもあらすじを説明するわけではなく、観ていたときの自分の頭の中をシナリオに並走させるだけだ。
CLANNADは確かに前半こそだらけていたものの、After Storyに入ったあたりから様子がおかしくなり、15,6話から怒涛の展開に突入する。
前半は青い学園生活まっしぐらで、原作未プレイ勢である私はそこまで大きく心を揺さぶられなかった。確かに、ことみの話など堪えるものはあったが、泣くまでにはいたらなかった。
そもそも登場人物がただ作者の都合で死なされるような作品で泣くほど、涙腺は緩んではいないつもりだ。離別や死別なども含めて、悲しいなぁとは思うが身に迫ってこない。たった一つの例外を除いて。
そしてAfter Story。卒業後の朋也を中心としながら進んでいったように思う。渚の何かずれているような通学に朋也と同じような違和感を覚えながらも、結婚を迎えてこの先どうなるのかとハラハラしていた。
そして出産。劇中では雪降り仕切るシーンのことだった。
長い時間追ってきた渚に思うことがなくはなかったが、まだ目の前ははっきりしていた。
そして5年の月日が流れていた。エンドゲームかな?
ここから細かく書くと長くなりそうなので、さっとまとめると
ひまわり畑のシーンで涙腺は脆くも崩壊した。そこからは最後まで泣き抜けた。見事なクライングランだった。
以下ネタバレを含むので注意されたい。
「CLANNADは人生」について
さて、問題の「CLANNADは人生」だ。
「◯◯は人生」と一般的に言う時、オタクが該当コンテンツを指して絶賛すると考えていたし、今のその考えには基本的には変わりはない。
視聴前はてっきり、CLANNADはその言葉に値するほど素晴らしい作品なんだとただナイーブに考えていた。まぁ中高のころから噂には聞いていたし、私にエロゲは泣くためにあるんだと力説していた中学の友人もCLANNADを激推ししていたので察してあまりあるクオリティなのは疑い入れなかった。
実はこの言葉はトリプルミーニングだった。
「CLANNADは人生」というとき、まず隠れていたのは「岡崎朋也の人生を描いた作品こそがCLANNADだ」ということだった。
そしてそれ以上に自分にとって大きかったのは、「CLANNADが人生を教えてくれる」という三つ目のミーニングだ。
CLANNADと人生
人は自らの生において一つだけ経験できないことがある。自分の死である。
正確に言えば、自分の死はもちろん自らが主体となって経験するものではあるのだが、その後に何が起きるのかを人は経験できない。あくまでも死にゆくその瞬間までを私でいるにすぎない。死の瞬間をもって私は私を卒業してしまう。
なのでここでは「自分の死」が指す対象を、人の生命活動が止まるまさにその瞬間だけに留めず、自分の死が引き起こすその後についても含めることとしたい。
CLANNADによって私たちは人生の最後に必ず待ち受けている死を経験することができる。もちろん文字通りの「自分の死」ではないが、ここまで追い続けてきた「渚の死」を経験できるのだ。
人がいなくなること
人の死は、すなわち人がいなくなることだ。
しかし人がいなくなることは、ただ人口が一人減ることではもちろんない。
人がいなくなることは、人が残されることだ。
人がいなくなること。親と子の関係において人が残されること。
これに私はめっぽう弱い。理由は自分では分かっている。
多くの映画やアニメを鑑賞してきたが、大体涙腺がもっていかれるときは親子における死別がテーマの作品が非常に多い。
『CLANNAD』『湯を沸かすほどの熱い愛』『バイオレット・エヴァーガーデン』など数え上げればキリがない。
そもそも親子に限らず死別などテーマとしてはあまりにもありふれ過ぎている。
そうした中にあってCLANNADは他の作品と一線を画しているポイントがあると私は考えている。
CLANNADの評価ポイント
なぜここまで私がCLANNADを評価するのか。
それは、親と子の関係における死の結果、人が残されることを、
ここまでのリアリティをもって活写した作品だからだ。
そして死別とはその瞬間をもって完結する、完了形のようなものではないということを何よりもまざまざと見せつけてくる作品だからだ。
着目したいのは、亡くなった人の連続的な時間はこの世界で最も残酷な刀で切り落とされて、そこで終端を迎えるにも関わらず、残された人にとってはその後の時間を、何事もなかったかのように連続的にしていかなければならないことだ。
当の本人にとっては、その瞬間までを生き抜くことに全力を注ぐしかないのだが、残された人の人生において「その瞬間」は全くの途中でしかない。
それが親子であればなおさらだ。親が亡くなったからといって、そこで話を終わらせるわけにはいかない。子が亡くなったからといって、エンドロールを迎えるわけにはいかない。
他の死別をテーマにした作品を貶める意図はないが、死別の瞬間はフィクションで描かれるのに比べてあまりにも突然過ぎて、何も分からないというのが私の正直なところだ。もちろん死の瞬間がはっきりと分かっているわけでもないので、気持ちがそこに向けて動きを起こすこともない。
人生は舞台芸術ではない。そこに第四の壁はない。何より自分以外のある人の死をクライマックスとしていいいわれもない。自分の人生には自分が責任をもって続けていく必要がある。
その「責任」を渚の周囲がどのように抱えていたかが、CLANNADはよく描写されていた。
残された人
少し話が変わって、東日本の被災地でも11年目を迎えようとしているが、未曾有の大災害という言葉では表現しきれないほどの出来事を受けて、必死になって今日まで駆け抜けてきた人が突然命を自ら絶ってしまうということがあると聞いている。
自分のキャパシティを大きく超える出来事に対して、人は火事場の馬鹿力を出して目の前を日々を何とか生きていく。脇目もふらず、親の面倒を見て、パートナーと協力し、子供を養う、もしくは一人で生きていく。
そして何かの拍子にふと立ち止まったときに、張り詰めた緊張の糸が切れる。話を聞く限り本人の中ではその音が聞こえているのだと推察する。前へ進むエンジンが動かなくなった人はあまりにも脆い。
駆け抜けた日々には何とも思わなかった、楽しそうに過ごす家族連れが、仲良しのカップルが、活き活きした老夫婦が、青い春を無邪気に過ごす学生が、忘れようとしていた自分の記憶を甦らせる。
PTSDの症状は、自分の記憶という本来連続的な時間軸をもつものから、大きな衝撃によってある記憶だけが時間軸をはみ出してしまうことが原因のようだ。時間軸に沿っていれば、悲しい記憶は人の脳が忘れるようになっているのにも関わらず、そうしてはみ出した記憶は突如として自分の脳裏に蘇るのだ。
CLANNADの5年間もまさしくそうしたものだったに違いない。残された人として朋也は必死に渚を忘れようと、汐を渚の両親にあずけ、仕事に没頭し、たまの休みすらも本来興味のないはずのパチンコとタバコに入れ込んだ。
決して誉められたものではないかもしれないが、それが彼なりの自分の人生への責任の抱え方だったのだろう。
そして張り詰めていた朋也の糸は、ひまわり畑で切れてしまうのだ。
残された人が全てこうだとは言わない。親や子やパートナーの死を粛々と受け入れられる人もいるはずだ。
だが話に聞く人たちは、身の回りの人は、そして私は、そこまで強くなかった。残された人が抱えるものはあまりにも大きく、残された時間はあまりにも長い。
どのように人の死を自分の中に受け入れていくか。決して平坦ではないその過程を、心理描写から具体的な描写まで丁寧に描いていた点でCLANNADを評価している。
決して大袈裟ではない5年という作中の歳月は、私にとっては非常に長い時間に感じる。昨日今日で人の死を受け入れられるなど弱い私からすると理解できないことだ。
人の死は、関わる人によってその終端が決まる。人の死を受け入れたとき、亡くなった人の死は終端を迎えるのかもしれない。
さいごに
ひまわり畑のシーンが名シーンであることは疑い入れない。
しかし私はもう一つ推したいものがある。
それは縁側で佇む渚の母親の張り詰めていた糸が切れる場面だ。
子が親より先に亡くなることより親不孝なことはない。
そして子を亡くすことほど親にとって辛いことはない。
それを分かっていながら、朋也のためを思い、
汐を預かっていた両親の気持ちはいかばかりだったであろうか。
そんな彼らが朋也に気づかれていないはずだと、泣き崩れる瞬間は何とも子供っぽかった渚の両親が親としてある瞬間だ。そして自分の人生の中に渚の死を受け入れた瞬間だ。
それは決してハッピーエンドなどではないかもしれない。しかし悔やんでも悔やんでも悔やみ切れない、積もり積もった5年をようやく受け止められるようになったはずだ。
CLANNADは人の死を、親の立場から、パートナーの立場から、そして子の立場から教えてくれる。そこに優劣も強弱もない。人の死が平等だと言いたいわけではなく、それぞれの「人の死」があるというだけだ。
普段からアニメを観る人も、そうでない人も
是非CLANNADを観て欲しい。
CLANNADは人生だ。