ガンプラに埋もれて生涯を終える覚悟が中高年独身オタクにあるのだろうか
正直、それはないと断言する。
何故なら、彼らは普通の人だからである。
ガンプラに拘らずタミヤ模型の未組立のプラモデルでもいいし、大量の怪獣のソフビのコレクションでもいいし、フィギュアや積みゲーや積読でもいい。
自身の懸念どころか、中高年のオタクは眼前に迫る自分達の親の老後の面倒を見なくてはならなくなるからだ。
散々コレクションをどうにかしろと言われて反撥するだろうが、殊自分の親となれば考え方も変わる。
というかそうでなくてはならなくなる。
高齢の老夫婦の一軒家を時々テレビで取り上げられたりするが、棚に仕舞えない食器やら捨てられてないチラシや督促状などが嘗て団欒の場だったテーブルの上に堆く積もれていたりする。
当然廊下も段ボール箱や衣類やらで溢れ返っている。
汚部屋と言う訳ではないが。
高齢になり過ぎて体が思うように動かなくなりそのまま何十年も放置してしまったというだけなのだ。
人には寿命があるのでいつかその両親は住んでいる家から別れを告げなければならない。
別に死んでも死ななくても体が動かなくなれば普通の家にはいられないのである。
高齢化した親が片付けられなかった部屋を今度は子供である自分自身が片付けなければならなくなるのである。
俗に言う「家じまい」というものだろう。
若者向けだった週刊プレイボーイですらそんな特集ページが組まれるようになってしまった。
この週プレの読者層が50代近辺であろうことさえ予測がつく。
家の整理には何年も掛かることがある。
松本明子も数年掛ったと言う。
物が堆く積もるのは現実から逃避している証拠で、積みプラですら目の前の現実から目を背けている証拠である。
組み立てる時間もないのだろう。
と言うよりも組み立てようとする意志がなく、新しいのが出たら次々と買ってしまいどんどん積まれていく。
目だけが欲しいと主張するのであり、目で買ってその時だけ満足する。
親に煩く言われる内はまだ幸せである。
親元から離れればどんどん積みプラをすれば良かろう。
結婚となればその積まれた物を何れ処分せねばならない。
勝手に処分されたと怒る声が時々届くが、大体こういうのは約束を守らない、または破ってしまって険悪な状況になってしまっているからだろう。
積みプラだけじゃなく玩具を処分された時に同情する声が多かったが、ここ最近どうも逆転したようにも感じる。
所謂人口の多い筈の団塊ジュニア世代が中年に差し掛かり、自分達の親の団塊の世代が後期高齢者(75歳)に入ろうとするからである。
こうなれば言わずもがなである。
前述の通り、親世代が自分達の断捨離を達成できずに多くの品物が溢れてしまった時に、子供である当人達が物を整理しなくてはならなくなってきてしまうからである。
自分の親の物を他人が片付ける訳にはいかないのである。
親の物の後片付けを何年もかけた後、今度は自分自身の番になることに気がつく。
その時、断捨離を始めるのである。
ここ最近の反応を見たら「勝手に処分させられた人」に対しての同情があまり寄せられなくなったように感じる。
あれから数年も経てば「当事者」達が増えたのではなかろうか。
大量消費の資本主義の恩恵を受けたジュニアらの年齢も上がったことだろう。
現実的に古本屋(ブックオフとか)に大量の古い本が引き取られているケースをSNS上で見かける。
この場合、本を大量に持っていた本人が所有権を離してしまい周囲の関係者がその価値すら分からず取り敢えず街の古本屋に引き取らせてしまうというものだろう。
本人しか価値が分からず、周りの人には全く価値が分からないのである。
大体孤立化した人の末路なのだろう。
家族が存在して御節介するのならまだ余裕がある。
孤立化してしまう人は誰とも話をすることはなくなるのでSNSですらその存在が知られなくなることがある。
正反対に蔵書自慢する人が出て来たりするが、スマホを手に入れたからそうなるのだろう。
人の目が入ることになったら、漸く現実に引き込まれていくのだ。
もはや積みプラ自慢をする人なんかいない。
その積みプラをどうするかみんな考える。
考えているという素振りを見せても現実から目を背けるだけかも知れない。
月曜から夜ふかしというバラエティでも団子屋の中をガンプラで埋もれさせている人がいて親から何度も注意されても性懲りも無く買い続けていたから、結局番組内で有志を募って組み立てさせることになった。
プラモデルは積むものと開き直る人がいるだろうが、根本的には組み立てるものである。
社会人になったら自由になるかと思ったら組み立てる時間もなくそのまま堆く積もる。
自由だったのは結局子供の時代だけなのである。
現実を見詰めた時、目が覚める。
奇しくもこの3年間コロナ禍で引き籠る時間が増えた人の方が多かったろう。
その時積みプラを組み立てた人はいたのだろうか?
体を動かさなければその意欲すら失うのである。
体力も集中力も若い時だけだ。
人間はいつまでも引き籠ってる訳にはいかないので、外に出なくならなくなる時が来る。
急に出てもぶっ倒れて病院に運ばれ、九死に一生を得たらば考え方も変わるものである。
「電波男」の本田透もそれを初めて書いた時から本を書き続けていく内に考え方が変わっていくのが分かる。
いつまでも引き籠る訳にはいかないということはみんな薄々勘付いている。
既にコロナが怖くて引き籠っていたような中高年オタクが、自らの思想や生き方を貫く人なんていないことが分かったので、前向きに考えたら埋もれて一生を終える道を選ばないのである。
しかしべき論も意味はない。
無気力な人はそのままになるが、何も考えなければ埋もれて果てるだけということも他人事なのだろう。
その時、既に本人は「死んで」しまっているのかも知れない。