本田透の思い描いたミライとセカイ🌏👼
『電波男』を書いた本田透はどこへ行ったのだろうか。
この本が書かれてから18年経つ。
もう直ぐ20年だ。
文庫本が出たのはリリースから3年後なのでかなり昔(2005年3月)になるということになる。
その後評論を書いていく中で小説も書くようになり本格的にそこへシフトチェンジしていったが、本田透名義での作品は9年後の2014年を最後に一切出なくなる。
ただ、それらしい評論がネット上で出たのも10年前が最後(2013年8月)で一切出て来なくなってしまった。
本田透こそエヴァの結末を知りたかった筈なのにその評論を俟たずして消えてしまった。
考えてみれば本田透は電波男からの数々の著作で思考の変遷を辿っているので結論は既に出てしまっているようなものである。
シン・エヴァンゲリオンの結末も本田透が予見したようなものだと言っても差し支えない。
本田透ならこう答えるではなくみんなの中に、庵野秀明でさえもこう結論付けていると感じ取れる。
話の結論はこれになる。
ガンプラに埋もれて生涯を終える覚悟は中高年オタクにあるのかという問いかけに、はっきり言って「ない」と書いた。
自分が書いたこの思考の立脚点は本田透の著作集や評論そのもので、人間は穴の開いた風船🎈そのものだし空気を補充せねば生きることが出来ないからである。
二次元に飛び立つしかないのかと本田透は電波男で自ら問いかけたが、結論は本そのものには書いておらず何となく各種の著作で仄めかしている程度で終わってしまった。
「現実に戻れ」みたいなことを庵野秀明は旧劇でぶちまけてオタクから大反発を食らったのだが、結局そのオタクたちも現実を意識せねばならなくなってしまった。
都条例や家じまいやコロナなどオタク自身に突き付けられた問題が現実に沢山転がっていた。
オタクは外と一切関わらず引き籠っていれば安泰だったと言うのは瞞しで、現実的には外濠内濠埋められて日常の金蔓奴隷として引き摺られそうになるところだった。
この金蔓奴隷の考察に関してはまた別の機会にするが、現実に引き戻すことは仮に良いことだとしても結局現実には干渉するなという枷を強いられるので、オタクに取っては何ら益することはなかったのである。
家じまいもコロナも先に書いた通りだが、妄想(二次元)の中を自ら選び取って生涯を全うするという考え方には至らなかったのだ。
何故なのかと思ってしまったが、考えてみれば山田太郎を政界に送り出したことでオタク達は社会に接点を持ち始めるようになってしまったからだ。
皮肉にも世間を意識することで真っ当な社会との接点を獲得してしまい、自身らにも周りの見た目を気にするようになってしまったのである。
俗に言ってしまえば「腐女子の学級会」で、世間に対して良い面を見せなければ再び迫害されると思い込むようなものである。
そこで世間と同調してあろうことか少しでも外れた者に対して一緒に石を投げ始めてしまったのである。
残念ながらオタクはこの時点で昔の孤高なオタクですらなくなってしまった。
言うなれば岡田斗司夫の「オタクは死んでいる」通りになってしまった。
キカイダーの人間に憧れた人形が、人間になることで手に入れたものもあったが同時に失ってしまったものもあった。
その岡田斗司夫も結局オタクの王様を名乗ろうとしても中身はすっからかんでしかなく、その場凌ぎの処世術しか与えることしか出来なかったのだ。
もうこの人を信じている人なんていないだろう。
あのレコードダイエットも結局本人がリバウンドしてしまえば何だったのだって話になる。
オタクがある時点で賢かったのは、岡田斗司夫の処世術をほぼ30年間くらい守ったきりで、ネットの出現と同時に適当なことを言い続けてきたことがバレてしまい一斉に退いたことであった。
まるで進撃の巨人で城壁内の権力者が外に住民達が出ないようにしていつまでも騙くらかしているようなものであった。
オタクが引き籠っていればずっと岡田斗司夫とかの“王様の天下”だったのである。
対してほぼ同年代の庵野秀明は遅くに結婚したことでいつの間にか作品もそれに引き摺られるようになり、変貌していったのには驚いてしまった。
庵野なりの結論が新劇場版に描かれていたのだが、いつまでもオタクが出せなかった結論を向こうがほぼ強制的に提示することで流石にオタク達も悟るようになってしまった。
その結論とは「オタクも現実の社会に関わっている」というものである。
シン・エヴァンゲリオンが出る前に本田透が最後のコラムで綴った結論にも垣間見れる。
コロナ禍でも平然と石投げるオタク達さえも気づかなかったのだろうと思ってしまう。
個人の尊重こそオタクの旗印だった筈だったがいつの間にかオタクが同調圧力の手先にもなってしまったのは皮肉としか言いようがない。
人間になったキカイダーである。
仏教ではあらゆる煩悩から解脱することこそが目標だったが、現世で生きる人々の解脱とは社会との関わりを見せることだったと思わざるを得なくなる。
三島由紀夫と全共闘の東大生との討論大会で頭でっかちの全共闘東大生とは別に赤ちゃんを肩車していた学生が話がつまらんとして途中退席していたのを思い起こされる。
あそこで三島由紀夫は何を伝えたかったのだろうと思う。
頭でっかちになってないで体を動かせと言いたかったのだろう。
結局三島由紀夫のその後の行動から影響を受けたのは新左翼達だった。
体を動かしてテロ活動までやってしまった。
養老孟司も体を動かせみたいなことを言っていたので頭で考えてちゃ結局煩悶は続くだけなのである。
凡夫はこれが限界。
本田透は萌えの力を手に入れるのは修行するみたいなことを言っていたので、やっぱり一日にしてならずなのだと感じる。
これもやはり仏教的な考え方でもあり、色んなことをやって(或いはやらなくても)気付くべきものなのだろう。
西洋哲学はキリスト教的な考え方に基づくが、これが行き詰った時にどこかで東洋哲学的な、仏教的な考え方に“戻る”ものだと思う。
本田透も、電波男に西洋哲学的な感覚がついて回っていたが著作を重ねる毎に仏教的な感覚になっているのに気付かされる。
どこかで“悟り”を開いたのだろう。
本田透がこのセカイから姿を消して一回り位の時が経ったけど、生涯独身を貫くのかもうそれともどこかで結婚してしまっているのかそれはどうかは分からない。
本田透がそのどちらかを選んでいようともどうでもいい。
本田透自身がマトリックスに倣って二次元も三次元もないと本の中で結論を出しているのである。
色即是空、空即是色。