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新しい自分が見たいのだ。note書く。
2回目の投稿。
これまでのクサカなら、いろいろと自己紹介をして書き始めようとするように思う。
けれど、自己紹介を先にすることで、クサカがどんな人間かという人となりや、こんな感じの人なのね、というキャラクターを読んでくださる方の中に作り上げてしまうような気がする。
読まれる方がどう受け取ろうとも勿論自由で、クサカにはコントロールしようのないこと。
作品が自分の手を離れて世に出た後の評価に似ている。
一度持たれたイメージは良くも悪くも、他者の意識にあって、クサカの手の及ばないところ。
クサカはこれまでの経験から、自分の立場などをいつも明快にするのが自分にとっても物事がやり易く、他者にとっても礼儀正しく分かりやすくて良いことだと思ってきた。
今回は、そうでない書き方をしていきたいと思う。
なぜなら、これまで通りの自己紹介をすることで、クサカが持つクサカのイメージをそのまま踏襲してしまい、大いなる遊びができなくなるように感じるから。
天赦日に始めたこのnoteでは、クサカが新しい引き出しを開ける新鮮さを味わおうと決めている。
美術を学んでからずっと印象に残っている言葉の一つに、
陶芸家 河合寛次郎の
「新しい自分が見たいのだ、仕事する。」
というものがある。
大学生の時には、言葉じりでは分かるけれど、どことなく実感しきれなかったことが、それってとても素敵で小さな、あるいは大きな勇気がいることだと実感する年頃になった。
クサカがこれまでできてきたことは、さらに丁寧にかつサラッとやり続けるし、思いがあるのにまだ成し遂げていなかったことも、まず心はヒョイっと達成に近づこうと思う。
そんなことで、2回目投稿は、
「新しい自分が見たいのだ。note書く。」
※ 河合寛次郎:1890年(明治23年)8月24日 生まれ、1966年(昭和41年)11月18日没の陶芸家。
1926(大正15)年に柳宗悦、浜田庄司らと共に民藝運動を始めた。民芸運動は、当時の工芸界で主流だったは華美な装飾を施した観賞用の作品に対し、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、美術品に負けない美しさがあると唱え、美は生活の中にある、と唱える生活文化運動。
各地の風土から生まれ、生活に根ざした民藝には、用に則した「健全な美」が宿っていると、新しい「美の見方」や「美の価値観」を提示した。工業化が進み、大量生産の製品が少しずつ生活に浸透してきた時代の流れも関係している。失われて行く日本各地の「手仕事」の文化を案じて、近代化イコール西洋化といった安易な流れに警鐘を鳴らした。物質的な豊かさだけでなく、より良い生活とは何かを民藝運動を通して追求した。
追伸 上記の注釈に思うこと。
民藝運動が始まったのは、ちょうど100年弱前。
当時は西洋化、工業化、大量生産化という大きなイノベーションが起こった頃。
100年弱たった今は、AI化の時代。
多くの分野、仕事で良くも悪くもこれまでにないイノベーションが起き始めている。
芸術の分野では、人間による創作か、AIによる創作か既に境界が曖昧な作品も出てきている。
その辺りについて、いずれ改めて書いて考えて見たいと思う。
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