金風光昭

元曹洞宗ハワイ国際布教師のクソ坊主の愚にもつかない独り言です。生来が天邪鬼な我が儘ですので間違いなくクソな坊主です。たいした英語を話すわけでもないのに母国語でない英語で話すことに物足りなさを感じてそのもどかしさからの独り言です。暇なときでもどうぞ。

金風光昭

元曹洞宗ハワイ国際布教師のクソ坊主の愚にもつかない独り言です。生来が天邪鬼な我が儘ですので間違いなくクソな坊主です。たいした英語を話すわけでもないのに母国語でない英語で話すことに物足りなさを感じてそのもどかしさからの独り言です。暇なときでもどうぞ。

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クソ坊主の愚かなる独り言

元曹洞宗ハワイ国際布教師のクソ坊主の戯れ言です。お寺は米国ワシントン州シアトルにあります。Northwest Zen Community 永祥寺といいます。 生来が天邪鬼な我が儘ですので間違いなく坊主としてクソです。ソンなわけで自分で寺を設立しました。そんなクソ坊主がたいした英語を話すわけでもないのに母国語でない英語で話すことに物足りなさを感じて、そのもどかしさから思わず始めたです。おそらく日本語も危ういかもしれません。 基本的に独り言ですので誰かに遠慮することは全くあり

    • 人間は考える葦?だから?

      パスカルの有名な言葉に「人間か考える葦である。」というのがあります。パスカルの「パンセ」の一節です。 「人間は自然のうちで、最も弱い一茎の葦にすぎない。だが、それは『考える葦(un roseau pensant)』である」から。自然の中での人間のか弱さと、思考する存在としての人間の偉大さを言い表していると普通は解釈されています。 果たしてそうでしょうか?

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      • 般若心経

        般若心経はとても有名な大乗仏教のお経です。このお経は大般若経というとてつも長いお経の要約です。字数にしてわずか二百七十四文字足らずですが、大乗仏教の神髄を述べていると思います。このお経は霊験あらたかなお経として内容はともかく呪文のように珍重されています。しかし、内容を理解すればもっと本質的な部分でこのお経のありがたみが判るのではないでしょうか?

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        • リリーデイルでの経験

          少し前に日本のテレビを観ていたらニューヨーク州にあるリリーデイルという村のことを知りました。この村はエリー湖の近くにある住民のほとんどが霊能者だという村です。それまでの経験で霊界があるといはあまり信じていませんでしたがなんとなく興味がわき、たまたまニューヨークの友人がリリーデイルからそんなの離れていないところに住んでいたので行ってみたことがあります。リリーデイルの霊能者は誰もが人気で事前に予約を入れないと会えな言うことだったので事前に予約を入れました。実際、こちらの都合のいい

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        クソ坊主の愚かなる独り言

          仏教は宗教か?

          明治維新により開国しした日本には怒涛のように海外の文化が入り込んできました。そのなだれ込んできた文化をそれまで文化のすりあわせの中で訳語の急増が急がれたようです。しかし、それまで日本にはなかった概念にも訳語をつけなければならなくなり、その創られた訳語にそれまでの概念を無理に当てはめていったのではないかと思います。私はその代表例が「宗教」という言葉だと思います。「Religion」の訳語に当てられた「宗教」は人間を超越した存在への信仰という概念をもつものをすべて指すようになりま

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          仏教とBuddhism

          仏教という言葉は少し違和感があります。何故かというと、仏という偉大な存在の教えに従えば救われるという響きがします。私は仏教を極めたかという問いに対して「さあ〜、分かりません!!」という僧侶ですが、仏が教祖でありその教えに従えば大丈夫というのは仏教ではないと思います。出典は忘れましたが明治維新までは仏教という言葉は存在していなく、「仏法」とか「仏道」という言い方をしていたようです。その方が正しいような気がします。また、英語では「Buddhism」という訳語ですがこれは全く合って

          仏教とBuddhism

          意識したもの

          道元の言葉に「覚知にまじはるは証則にあらず(弁道話)」というのがあります。相田みつを氏はこれを「意識したものに本物はない」と解釈しています。私は「結果を意識したらそこで終わり」と理解しています。意識するということは自分にとって好ましい結果を少なからず望んでいるわけで、そこには自分を先とする思いがありどこかギスギスしてしまうのではないでしょうか。何かをするときに結果を意識しないでサラッとできたら楽だし思いかけない結果を得ることができることが多いような気がします。意識するというこ

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          意識したもの

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          戒とは?

           仏教の戒は基本的に二種類あります。大乗戒と小乗戒です。小乗戒は悟るために守る。突き詰めれば個人的な問題です。これに対して大乗戒は個人の放棄です。全く別の次元の話です。エゴ、つまり自己の完全な放棄です。ですから制止です。エゴを放棄することが大乗戒を保つことです。もっと具体的にいえば、天地法界の命の実修実証です。道元禅師の只管打坐です。宇宙・大自然の在り方ないし我々の本来の在り方のことであり、成仏のことです。

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          絶対的安心

          宗教的安心は絶対的な普遍妥当性の真実に裏付けされたモノでないと意味がないでしょう。そうでないと事情が変わるとその安心が安心でなくなるからです。それでは普遍妥当性の真実とは何でしょうか?それは、間違いなく人間の思想を超えたモノでしょう。思想はすべからく人間の頭の中だけで作られたモノです。人間そのものがこの宇宙の中のごく片隅にたまたま存在しているのは厳然たる事実ですし、その人間の頭の中で創造したモノが絶対的真理になるということは決してないのは明らかでしょう。絶対的なる真実とはこの

          絶対的安心

          人の為と書いて・・・

          相田みつを氏の「人の為とかいて、いつわりと読むんだね。」というのはその通りです。 人のための人生なんてよく考えるとあり得ないでしょう。せっかく両親から頂いた命を大事に生きることが一番大事です。その自分の命を大切に生きることを突き詰めると一人では生きていないことに気づくでしょう。そのときの感謝の気持ちで自分以外の人、モノに接することが出来るのではないでしょうか?その見た目は「人の為」と見えるのでしょう。 もう一つの読み方があります。人の為と書いて「人為」とも読めるのです。つ

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          戒名

          仏式の葬式に戒名はつきものですが、いったい何なのでしょうか?必要条件ではないはずです。十分条件なはずです。この捻れは誤解を生んでいるのではないでしょうか? 東京のお寺で仕事していたときに、東京ガスの偉い方がお亡くなり、遺族の方が葬儀の打ち合わせにお越しになりました。葬儀日程の打ち合わせをして、いよいよ戒名の話になりると、息子さんがこの戒名でお願いしますと紙を見せるのです。その紙には、○○院殿○○□□大居士と書いてあり、これでお願いしいますというのです。此方としては、誰に授与さ

          どんな素晴らしい思想も所詮人間の脳の要求の産物です。人間が切望し、その対象として出てきたのが神だったりするわけですね。思想は決して真実を語ることは出来ない。

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          人間としてナーンの役にも立たない修行。只管打坐。何かを求めて坐るのは瞑想(迷走)。ただ坐るのは坐禅。

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          お布施

          布施は、「ほどこし」というように受け止められることが多いのですが、大乗仏教の「布施」の意味は少し違います。施しをする側も、される側も、施しをするものそのものも同等の価値があると考えます。施しをする側は、される側がないと施しが出来ません。当然、施しをする側がなければ施しを受けることが出来ません。施しをするものがないと、この行為自体が成り立ちません。ですから、この三要素はどれもが同価値なのです。また、施しをするものは何でもいいのです。目も見えるものでも、見えないものでもいいのです

          良寛さん

          了寛さんは、優しく何でも受け止めるような印象がありますが、その求道にたいする純粋な思いは、激しいものだったようです。 僧伽(そうぎゃ) 現代語訳 頭髪を剃って僧侶となったからには、衆生に喜捨を乞うて修行するわけだ。それを自分ですでに承知していながら、どうして反省しないでおれよう。私の見るところでは、世の僧侶たちは昼も夜もわけもなく読経と説教に声をはりあげているだけである。ただ生活の資を得るために、一生、心を外部にばかり馳せているのだ。在家の衆で仏道に志さないならまだ許せよ

          最近、時間があるのでよく草取りをします。そこで、思いました。何を境に雑草というんだろう? 人間様のご都合でしょうね。

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