カラムーチョが自由に買える生活
東京に来て丸5年半経つが、わたしは全然芸能人に出会わない。というより、気付かない。すぐ気付いたのはアグネス・チャンさんくらいだ(あの透明感は半端なかった…)。
関西に住んでいた時、朝から夕方までFM802、夜はNHKからの歌番組というパッケージプランだったということもあって、元々わたしは芸能人アンテナがかなり低いんだと思う。
そんな私が、この前あるモデルさんを見かけた(気付いた)。そこはめちゃくちゃ洒落ているカフェで、それは本当に映えていた(因みに 映えてる、を英語で言うと Instagram-worthyって言うんだと知ってなるほどと思ったのは、わたしが大好きなクリントイーストウッド監督の作品だった)。
カフェの雰囲気、インテリア、粋な店員さん、お洒落なフード、何から何までがその素敵なモデルさんを映えさせ、映えさせているピースもまた映えていた(映え返しだ)。そこには一つの空気感が生まれていて、額縁で切り抜ける感じだった。
私は色が大好きなのだが、自分の部屋とか写真を撮る時とか、目に色として映る世界はまず相対するものとして切り取っている、ように思う(フレームや瞬間に、世界を見立てていくイメージだ)。
一方でモデルにとっての世界とは・・・相対するものというより、その世界観を纏う側、そしてプロデュースする/しあうような一体的な身体の延長のようなものに思えた。その流れるようなcontextに 美 を感じるように思えた。
そう思うと、顔の知れたモデルは
割引シールのついた唐揚げとか、初めて聞くような名前の体に悪そうな炭酸ジュースとか、30%増量のカラムーチョとか、
わたしが相対して愛するアイテムの世界観、そのcontextにははまりづらそうだ。
アイドルもそうかもしれない。
わたしはモデルやアイドルの道を選ばない人生で、カラムーチョが自由に買える生活を送っている。
でも今は
デジタルという技術があらゆる距離感を縮めている。
つまり、モデルやアイドルと
カラムーチョの距離感も縮めている?
誰もが、カラムーチョを自由に買える生活。
それがデジタル時代の、代名詞の一つになれるかもしれない。