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【ショート・ショート】車上
昔から、いい考えが浮かびやすい場所は、馬上、枕上、厠上と相場が決まっているらしい。
しかし、枕上といっても夜はおちおち眠れず、トイレもせかされてばかり。思案どころではない。馬上は乗馬の経験はないので結論は控えたい。
さて前振りが長くなったが、馬を電車に置き替えてみると少し様相が異なる。電車の適度な振動は眠りを誘う。これは科学的に証明されている。ポカポカの日差しと小難しい本は更なる相乗効果をもたらす。思案するにはいかがなものだろう。
それは、さておき。
出張帰りの電車の中。今日は一日中得意先回りで結構歩いた。席に座って、ビジネス本を開く。字面を追ううちに、私はほどなく睡魔に襲われ……。
屈した。
どれほど時間が経っただろう。目が覚めた。首の筋が痛む。変な格好で眠っていたようだ。
ん?。肩に重みと温もりを感じる。首をそっと巡らすと、頭がある。隣の女性が私の肩を枕にしている。こんなことは初めてだった。思わずにやけそうになるのを必死で堪える。
埼京線は、線路の繋ぎ目で電車が弾む。うーん。その度に、彼女の頭がごそごそ動く。今にも目覚めそうな気配。
起きるな、起きるな。
もう少しこの状況を味わっていたい。揺れる度に肩から離れそうになる頭。私はぐっと押さえつけたい衝動に駆られる。
いかん、いかん。危ない、危ない。
この頃は、セクハラとか、コンプライアンスとか、とかく五月蠅い。いや、その前に痴漢行為で御用となりかねない。
私が降りる駅まで、後二つ。
「間もなく十条、十条」
アナウンスが入る。電車が停まった。
起きるな。まだ起きるな。
ここを無事乗り切れば、後一つ。いや、いざとなればその先まで伸ばしてもいい。
リリーン。リリリーン。
その時、携帯のアラームが鳴った。次の瞬間、女性はがばっと起きて、ホームに飛び出していった。
呆気に取られる私。取り残された肩が寂しい。
私は赤羽駅で下車した。歩く度に、私の周りで残り香が踊る。
ちょっとウキウキした気分。
よーし。今日はケーキでも買って少しでも女房殿のご機嫌を伺っておくか。
駅地下の食料品売り場で物色していると、若い女店員がチラチラ私に視線を送ってくる。
うん? 何、なに、今日の俺の恋愛運は最高かぁ。
揚々としていると、若い娘に耳打ちされた年配の店員が、
「あのーぉ、お客さんの、ここ、ここんとこ……」
と自分の胸の辺を指さす。私ははっとして、駅のトイレに駆け込んだ。
まずいなぁ。まずいよなぁ。
ワイシャツの鎖骨辺りに真っ赤な口紅がべっとり着いている。
身から出た錆とは言え、いま我々夫婦の関係はかなり危機的な状態にある。
あー、あーっ。
何と説明しよう。
困ったなぁ。困ったよなぁ。
戻って車上で案を練るか。それとも……。
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