【ショート・ショート】夏みかん
バス停では既に三人が待っていた。風が冷たい。
私はコートの襟を立て、ポケットに手を突っ込み、少し背中を丸めながら列の最後尾に付いた。綾子は寒さに強いのか、私が驚くほどの薄着だ。
暫くして、老夫婦が我々の後に並んだ。
「ほら、ご覧。夏みかんの皮が剥けているよ」
声の方を向くと、老人が、家の庭先から道路に張り出した、枝もたわわに実る夏みかんの一つを指さしている。両の手で包んでも余りそうな大きさだ。
二人の会話は、聞くとはなしに私の耳に入ってくる。
「あら、そうですね」
「自然に皮が剥けるのかね」
「そんなことはないでしょう」
婦人が答える。
「それとも鳥が啄むのだろうかね」
「でもこの時期まだ随分酸っぱいでしょうから、やはり病気か何かでしょう」
「そうだろうかね」
「ところでなぜ夏みかんと言うのでしょうかね、冬にこんな立派な実が生っているのに」
「そう言われればそうだね。余り考えたことなかったなあ」
そう言ったきり、老人は夏みかんを見上げている。婦人は老人の視線を追っている。
二人は共に年の頃は七十半ばと見えた。
A駅行きのバスが来て、我々は乗り込んだ。
電車はまあまあの混み具合だったが、運良く座ることができた。動き出して一分もしないうちに、綾子は私の肩を枕にして規則正しい寝息を立て始めた。
今日、綾子は明け方まで仕事をしていた。
「今寝たら夕方まで起きないから、折角の日曜日がもったいない。映画にでも行こうよ」
綾子の提案に私はざっとした予定を立てた。三駅先のE市で、映画でも観て、店を冷やかしながらブラブラと通りを歩いて、帰りに小洒落た店で一杯やって……。
そして、降りるはずの駅が近づいたが、熟睡している綾子を起こすのは忍びなくて、遣り過ごした。
さて、私は先ほどから前に立つ女性に気を取られていた。
その女性は、丸顔で目が大きい(多分。見上げているから実際の大きさが分からない)。ソバージュと言うんだろうか、毛先まで細かいウェーブが掛かった髪型で、思わず触れたくなるような柔らかさに魅せられる。トップスは襟首がゆったりした、太めの毛糸で編まれたタートルネックのセーターと、その上に丈が短めで厚手のツイードのジャケットコートを羽織っている。ボトムスはぴっちりしたスリムのデニムで、足元はショートブーツ。全体的に肉置きがいい。
惜しむらくは彼女がそれから二つ目の駅で降りたことだ。
未練がましく首を巡らしていたら、
「趣味、悪いわよ」
と耳元で綾子が囁いた。いつから目を覚ましていたのだろう。
「えっ、何が?」
私が惚けると、
「肩がぐりぐり動くから、落ち落ち寝てられないじゃない」
と綾子は体を起こしながら、小さく伸びをする。
「あんな女、ざらにいるわ。それに見た目ほど、若くもないわよ」
不覚だ。綾子にしっかりと見られていた。こういうことはほとんどない。ほとんどないのだが、偶の機会は得てして綾子と一緒の時が多い。
「鼻の下を目一杯伸ばして、みっともない。直ぐ側に、こんないい女がいるのに。ところで、ここ、どこ?」
「さっきの駅が代々木上原だから、もうすぐ新宿だ」
「いやだーっ、完全に乗り過ごしてるじゃない。どうして起こしてくれなかったの?」
「君があまりに気持ちよさそうに寝ているから、それでもいいかなって」
「じゃあ、どうするの? もう映画は無理よね」
「新宿でぶらぶらして、昼食でもして、帰ろうか」
バス停に戻って来た頃には、かなり日が傾いていた。空が茜色に染まり、街が一番きれいに見える時間だ。英語ではマジックアワーと言うらしい。
バス停では夏みかんが風に揺れて、我々を出迎えてくれた。
「ホント、どうして夏みかんと言うのかしら?」
綾子は、朝の老夫婦の会話を思い出したらしい。
「僕、その答えを知ってるよ」
「じゃあ教えてあげればよかったのに」
「いや、二人の会話に割り込んじゃいけない気がしてね」
「そうなの? 私ね、いつか家を建てたら、狭くてもいいから庭を造って、植物を植えたいの。絶対実用性のあるものがいいわ」
「その前に、どうして夏みかんと言うのか、聞かないのかい?」
「うん、聞かない」
「何だよ、それ。自分から言い出したくせに。で、何? 実用性のあるものって?」
「食べられる果実が生るものよ。石榴とか、無花果とか。そう夏みかんもいいわね」
「ついでに、トマトや胡瓜何かも育てたら、どう?」
「野菜だと秋には枯れちゃうでしょう。それは嫌なの。収穫まで時間が掛かっても、茎が残るのがいいの」
「でもそれって、きっと鳥や動物が実を食べに来るよ。食い散らかしたり、糞を撒き散らしたり、掃除が大変だよ」
「もう。頭から否定的なことばかり言わないでよ。空想しているだけなんだから、もっと夢のあること言ってよ。本と、優しさってものがないわね」
夏ミカンは晩秋には黄色くなるが、まだその時点では酸味が強すぎて食用には適さない。だから春先から初夏まで、木成りで完熟させて酸を抜く必要がある。そして初夏の時期にやっと食べられるようになる。それで夏ミカンと呼ばれるそうだ。
綾子と一緒に暮らすようになって二年。最初のうちは意見がぶつかることも多く、時には怒った綾子が二三日帰って来ないこともあった。でもその都度、どちらからともなく歩み寄って元の鞘に収まってきた。
そこそこ時間が経って、我々の関係からも渋みや苦みが程よく抜けている頃だろう。
「なあ、そろそろ僕たちの関係を、ちゃんとしたものにしないか?」
「それって、結婚するってこと?」
「質問に質問で返すなよ」
「あなたが曖昧な言い方するからよ」
「で、返事は?」
「うーん、保留」
「えっ?」
言葉は心を伝えるのに完全な道具でない。それでも言葉にしないと伝わらない思いもある。
だとしてもだ。
保留って、何だよ。
保留って……。