【連載小説】10 days (9)
6.五日目(水曜日)
6.1
「おう」
健一が青い顔をして食堂に顔を出した。
「おはよう。はい、水」
健一はそっと椅子に座った。
「すまんな」
痛てっ。健一は喋る度に顔を顰める。酷い二日酔いのようだ。
「何か、変なこと口走っていなかったか?」
「別に」
ママをどうかとか、源三の大馬鹿野郎とか、叫んでいたが、今は言わない方がよさそうだ。
「そうか。どうも夕べは悪酔いしたみたいだ。すまん」
またも謝る。醜態を晒したことを酷く恥じているようだ。
「いいよ、気にしなくても」
佑斗はおかゆが入った椀を差し出した。
「悪いな」
「僕、こういうことには馴れているから。母さんも、たまに酔っ払って帰ってくるから」
健一は意外そうな顔をした。
「母さんは、二言目には『女が一人で、仕事しながら子ども育てるって、大変なことなのよ』って言うんだ。そんな愚痴を聞かされても、僕にはよく分からないし、何もできないっていうのに。だから、せめて次の日の朝は、何も聞かなかったような顔をして、おかゆを作ってあげることにしている」
「あいつは、子どもの頃から、気が強くて、頑張り屋でな。それでいて、気持ちが優しくてな。それをいつも隠している。不器用なヤツだ」
健一が目を細める。
「そこに梅干しがあるんだ。取ってくれ。二日酔いには、これが効くんだ」
健一は不格好な陶器製の壺を指さす。健一は俺が作ったんだと言う。お手製なのは、壺か梅干しか、それとも両方共なのか気になったが、佑斗は黙って壺を渡した。
健一は少しずつおかゆを口に運びながら、時たま「痛いっ」と左の口角辺りを庇う。
「殴られたの?」
「そんなことはせんよ。年寄りがそんな無茶したら、どちらも怪我をしてしまう。小競り合いした時、源三の拳がぶつかっただけだ」
「あの男の人、源三って言うの?」
「ああ。あいつは、言うなれば俺のケンカ友達だ」
「ケンカするのに友達なの?」
「そういうことだ」
「変なの」
朝食の片付けが終わって、佑斗が健一に今日の予定を尋ねると、
「まだ俺は本調子じゃないからな。午前中は、家で大人しくしてるよ」
と言う。
三日連続だと何か勘ぐられるかも知れないと思いながら、
「じゃあ、僕は釣りに行ってもいい?」
と佑斗が聞くと、「ああ、好きにするさ」と呆気ない返事が来た。
佑斗は今日も夏美と竿を並べた。今日も夏美が東京の事を色々聞きたがるので、佑斗は釣りそっちのけで、知り得る限りそれに応えていた。
昼ちょっと過ぎ。
佑斗はうきうきしながら『サクラ』に向かった。
『サクラ』には先客がいた。健一と源三だった。昨夜と同じように、入り口付近に健一が、奥に源三が座っている。源三は佑斗を手招きして隣の席に座らせた。
「坊主、名前は?」
「植村佑斗です」
「いい名前じゃないか」
「はい」
「夕べはケンの野郎とケンカして悪かったな」
「おい、謝るなら俺に言えよ」
「ケンの野郎が嘘ついたもんでな。それでつい手が出ちまった」
「俺は嘘なんか言ってないぞ」
「まあ、いい」
源三が健一の方に近づいて行った。
「何だ?」
「俺の親父は漁師でな。海は幸をくれるが、板一枚の下は地獄じゃ。海との闘いは、油断すると魂を捕られる。今みたいな便利な機材がない時代のことだ。自分の経験と勘を信じて、ぎりぎりの所まで命を張ったそうだ」
「そんなこと、初めて聞いたぞ」
「俺も、今日初めて話している。そういう極限の所で、こいつはどこまで逃げないでいられるか、こいつに俺の背中を預けられるか。そんなことを殴り合いしながら、肌で感じ取っていたんだろうな。親父はケンカしても何も言わなかったが、仲直りするまで、家には入れてくれなかったな」
「矛盾していない?」
「お前、難しい言葉知っているな。そんな家だったから、俺が痣を作って帰っても、お袋も平気な顔していたな」
「一体なんの話だ?」
「明日はどうなるか分からん。だから、その日のことは、その日のうちに片を付けろ。そんな刹那的な生き方の親父だった」
源三は咳払いして、
「一日遅れたが、やむを得ん」
おい。源三は手を差し出した。
「で、どうしたいんだ?」
「おい」
源三がじれったそうに手を振る。
――もう、二人とも手が掛かるな。
佑斗が健一の手を取って、源三の手と繋げた。
「はい。握手。これで仲直りと言うことで。それで、いいですね」
「結局、原因は何だったの?」
ママはそれがどうにも気になるらしい。
「俺が孫を出しにして、ママに取り入ったと、こいつがほざきやがったんだ」
「ふん」
源三が鼻を鳴らす。
「俺だって、お前が、この間、ママの誕生日にこっそり花束贈ったこと、知ってるんだぞ」
「ふん」
「これで、お相子じゃないか」
「馬鹿言え。それとこれは違うだろう」
「どこがどう違うんだ」
「分からんのか」
佑斗はどっちもどっちだと思うが、黙っていた。
「源三。何、訳の分からないこと言ってるんだ」
「それだけ?」
ママが呆れた顔をする。健一が、
「ああ。酔っ払いのケンカなんて、そんなもんだよ」
と冷めた口調で言うと、
「あら、あら。こんなお婆さんが原因だなんて、申し訳ないわ」
ママは恐縮しながらも満更でもなさそうな顔をした。
ママはカウンターに三人分の昼食を並べながら、
「ビールはなしよ。折角仲直りしたんだから、酔っ払って元の木阿弥になるのは御免よ」
と戒める。
「いいこと。また今度やったら、出禁だからね」
もう何度目になるのか。ママは『また今度……』を宣告した。
佑斗はあっという間に食べ終わった。
「僕、また釣りに行くよ。いいでしょう、ケンさん」
佑斗は午後も夏美と釣りをする約束をしていた。
「お前、すっかり釣りに填まったみたいだな」
「あら、そうとばかりは限らないわよ。ねえ、ユウくん」
ママが探るような目を向ける。佑斗は心の底まで見透かされそうで、
「じゃあ、行ってきます」
と逃げるように飛び出して行った。
防波堤まで行く途中に、佑斗と同年代と思しき少年が立っていた。佑斗を待っていたようだ。少年は佑斗に気づくと、近づいて来た。
「顔を貸せ」
男の言っている意味が分からなかったが、態度から俺に付いてこいという意味だろうと解した。色が黒く、背は佑斗より十センチほど高く、しかも肩幅が広くがっしりしている。
――あれ、圭太と佑斗君じゃない。
夏美は、防波堤の手前の階段を降りていく二人を見て、何か不穏なものを感じ取った。夏美は自転車を止めて急いで二人の後を追った。
圭太は、防波堤の陰で砂浜になっている場所まで来ると、立ち止まって振り向いた。佑斗も足を止めた。
「夏美とは、もう会うな」
「別に会っているわけじゃない。釣りを教わっているだけだ」
「それを止めろって言ってるんだよ」
余計なお世話だ。のど元まで出掛かったが、佑斗は飲み込んだ。
「あいつがお前と話してるのは、東京の話が聞きたいからで、お前が好きなわけじゃない」
「そんなこと、分かっているよ」
「だったら、あいつに変な期待、持たせるな」
「そんなの、夏美さんの勝手だろう」
夏美さんと名前で呼んだのが気に障ったようだ。圭太の顔がピクッと動いた。
「じゃあ、腕ずくで止めさせる」
圭太は手のひらを開いて見せた。素手であることを、凶器のたぐいは何も持っていないと示したものらしい。佑斗も同じように手のひらを開いて見せた。それから拳を作る。佑斗も真似した。
砂浜は足を取られて動きにくい。だが倒れても怪我しにくい。圭太はそれなりに気遣っている。
「いくぞ」
圭太が一歩踏み込んできて、右手が動いたのが見えた。次の瞬間、いきなり頬骨辺りに衝撃を感じた。一瞬目の前が真っ暗になる。後ろに飛ばされるように倒れた。何が起こったのか分からなかった。
殴られたらしい。
佑斗にとって、痛さよりも初めて殴られたという精神的な衝撃の方が大きかった。
圭太は佑斗に馬乗りになって、拳を振り上げた。
「やめて」
そこへ夏美が割って入った。
「あっ、夏美」
途端に圭太の動きが止まった。
「圭太、何やってるのよ!」
夏美は声を荒げる。
夏美に圭太と呼び捨てにされた少年は、母親にいたずらを見つかったような、いかにもばつが悪い顔をした。のそりと立ち上がる。見る見る体から力が抜けていくのが見て取れた。
将に青菜に塩。佑斗は圭太に同情を覚えた。佑斗は立上りながら、
「転んだんだよ」
と言った。
「えっ?」
二人が同時に佑斗を向く。
「僕が転んだのを、彼が起こそうとしてくれたんだ」
「何言っているの? 私、見てたのよ。それに、その傷、どう見ても殴られた痕じゃない」
圭太は下を向いたまま拳を固めたり解いたりしている。
「夏美さんにどう見えたかは、問題じゃない。僕が転んだって言ってるんだから、間違いないよ」
「私、はっきり見たのよ!」
「僕が立上るのを、彼が助けようとしてくれたんだよ」
夏美が心から呆れた顔をする。圭太は黙ったままだ。
「信じられない。ばっかじゃない。二人とも。勝手にすれば」
夏美は踵を返してさっさと階段の方に向かう。
「信じられない」
「ばっかじゃないの」
夏美は首を振り、当てこすりのように二つの言葉を繰り返しながら去って行く。佑斗は服や体に付いた砂を払い、圭太の肩を叩く。圭太が振り向いた。佑斗は笑って、夏美の方を顎でしゃくる。
「夏美さんは行ったよ。どうする? 続ける?」
圭太はじろりと佑斗を睨んで、
「いや、もういい」
とぼそっと言った。
圭太と別れ、佑斗は坂道をとぼとぼと上っていく。殴られた頬が痛む。玄関の前で大きく深呼吸して、「ただいま」と努めて明るくドアを開けた。
健一は食堂にいた。佑斗の姿を見ると、
「あれっ、随分早いな」
「さっぱり釣れなくて、早めに竿じまいしたんだ」
佑斗が左頬を隠すようにして答える。健一は肩を掴んで振り向かせた。佑斗の顔を見て少し驚いたようだが、どうしたのかとは聞かなかった。
「痛むか?」
「うん、少し」
「ちょっと待ってろ」
健一はビニール袋に氷を入れて口を縛り、それを厚手のタオルで包んだ。
「ちょっと痛むかも知れんが、我慢しろ」
健一は頬の傷痕を軽く押す。痛い。佑斗が顔を顰める。
「骨には異常ないようだ。これで冷やせ」
タオルに包んだ氷を佑斗の頬に当てた。
「何も聞かないんだね。こんな時は『どうしたんだ?』とか『大丈夫か?』とか聞くんじゃない?」
「まあな。でも聞かなくても、おおよその見当は付くさ」
「転んだんだよ」
「分かっている。若い時は、そうやっていっぱい転べばいいんだ。躓いて、転んで、怪我して。そうやって少しずつ大人になっていくんだ。青春だよなあ。俺にもそんな頃があったなあ」
健一は一人感慨に浸っている。
「後、二三日で目立たなくなるかな」
「腫れは引くだろうが、多分、青たんは無理だな。一週間ぐらいはかかるかも知れんな」
「そうか。お母さん、僕の顔見たら、驚くかな」
「まあな。もしかしたら卒倒するかも知れんな」
「そっとう?」
「ぶっ倒れるってことだ」
「それは困るよ」
「冗談だ。あいつは、そんな柔じゃないさ」
――子供の頃、あいつは擦り傷やたんこぶを作っても、絶対泣かなかったな。
ふっとそんなことを思い出して、健一は苦笑した。
<続く>