【連載】ラジオと散歩と味噌汁と(10/15)
10.捜索
去年の桜が咲く頃。
私は君に頼まれて買い物に出掛けた。
どこで調べたのか東京の有名な店を告げ、そこの菓子が食べたいと、君は珍しく駄々を捏ねた。
その時分には、一歩踏み出すにもかなりの体力と時間を費やすほどに君の症状は進んでいた。
往復、最短でも四時間。そんなに長い時間君を独りにするのは心配だったが、「お願い。私の最後の我がまま」と拝まれると無下に断ることもできなかった。
「なるべく早く帰るから」
後ろ髪を引かれる思いで出掛ける準備をする私の背中に、君は「ごめんね」と言った。
玄関を開けると、部屋の空気がいつもと違うことに気づいた。
まさか。
私は寝室に走った。案の定、君の姿はなかった。
テーブルの上に手紙が残されていた。
『今までありがとう。私はとても幸せでした。ごめんね、また一人ぼっちにして。 冴子』
私は、君の名前を指先でなぞる。震える手で一所懸命書いた伝言。名前の『子』の『一』の止めの部分に溜まったボールペンのだまが、君の無念を物語る。全てを吹っ切った君の意志の強さを感じる。
行き先が実家なのは自明だ。君が一人で動けない以上、頼れるのは両親しかないからだ。
――でも、どうして?
君は以前、その時が来たら病気のことを両親に話すと言っていた。今日が『その時』だったのか。
今日の今日まで、そんな素振りは微塵も見えなかった。
――あの馬鹿。
私に一言の相談もなしに、しかも留守中にいなくなるなんて。悔しかった。
――直ぐ実家に行って、今後のことは両親と相談するとしても、まずは君を連れ戻さなくては。
しかし、私はその場所を知らなかった。知らされていなかった。
入籍後、ご両親にはお会いしたが、家には行っていなかった。落ち着いたら改めて挨拶に行こうと二人話していたが、ごたごた続きで先延ばしになっていた。
私は君の携帯電話に電話した。しかし「お掛けになった番号は現在使われておりません」と聞こえてくるだけだった。
――どういうことだ?
何かがおかしいと思ったが、そこに止まってはいられない。
――何か住所が分かるものを……。
家中捜したが君に繋がるものは何も見つからなかった。書簡類は、君が全て持ち去ったものとみえる。そこまでして自分の痕跡を消す理由が分からない。
――後を追わないでと言っているのか。でも、なぜ?
なぜ? どうして?
頭の中で疑問が堂堂巡して、ただ時間ばかりが無為に過ぎていく。気が急くばかりだ。
――他に何かないか?
落ち着け、落ち着け。自分に言い聞かせた。
――あっ、そうだ、住民票がある。それで実家の住所は辿れる。
そんな簡単なことにさえ考えが及ばないなんて、よほど気が動転していたらしい。しかしその時には疾うに午後五時を過ぎており、市役所の業務はすでに終わっていた。
次の日朝一番に市役所に行って住民票を取った。だがそこに君の名前はなかった。
――どういうことだ。
私は不審に思い、
「三年ほど前に婚姻届を出したんですが、戸籍には記載がありません。調べてもらえませんか」
と窓口の女性に頼んだ。女性はパソコンを操作して画面で確認していたが、
「鈴木雅人さんの婚姻届は提出されていないようです」
「そんなはずはない。私は確かに提出したんだ」
「ですが、記録にはありません」
不毛なやり取りを何度か繰り返した後、
「ここの責任者の方をお願いしたい」
と私はしびれを切らした。
「少々お待ち下さい」
彼女はそう言い置いて、上司らしい年配の男性に報告に行った。私は、彼にまた一から説明した。すると彼は、
「私共は決められた手順に従い、確実に処理しております。もし提出されたのでしたら、記載漏れということは絶対ありません。私共は二重三重のチェックをしております」
と木で鼻をこくったような回答をした。
「もし、とは何だ! 私はちゃんと提出したんだ」
私が気色ばむと、彼は勤めて冷静に、
「失礼しました。それでは提出日がお分かりですか。書類は五年間保存しておりますので、お調べることは可能です」
と提案してきたが、できればやりたくないと顔に書いてある。
「もういい」
と私が言うと、男はおざなりに頭を下げて仕事に戻っていった。
おそらく事務的には男の言うことが正しいのだろう。
だが私達は確かに婚姻届を出した。それなのに、君の名前がないなんて、一体どういうことだ。
君が出て行ったことだけでも十分衝撃的なことなのに、さらに追い打ちを掛けるように不可解なことばかり起こる。私は身も心もへとへとになりそうだ。
これでは警察に失踪者の捜索を頼むにしても、相手にもされないだろう。
市役所からの戻り道、顧みる。
そう言えば、結婚する前の仕事も、勤めていた会社も、私は君のことを何も知らない。同僚や友達を紹介してもらったこともない。
一度尋ねてみたが、君は笑って答えることはなかった。日々の中で聞く時間は十分あったはずなのに、ついつい後回しにしてしまっていた。
――他に何かないか?
何度目かの自問自答。私は思いを凝らした。
――そうだ、同窓会の返信ハガキか名簿には、君の住所が書いてあるはずだ。
だがそうと分かっても、私は幹事の名前さえ覚えていなかった。
唯一連絡先を知っている出席者は、三年のとき同級生だった高橋だけだった。彼は知人以上友人未満だが、他に伝がない。
「同窓会の幹事? そんなの、案内のハガキに書いてあるだろう」
電話口の高橋は迷惑そうな様子を隠さない。日頃人間関係を疎んじていると、こんな時にしっぺ返しが来る。
「それが探したんだけど、見つからなくてさ。高橋君が持っていないかと思って電話してみたんだ。他に参加していた人を知らなくてさ」
「もう四年近くも前のことだろう。今頃、何の用だよ」
まあ、ちょっとね。私は適当に誤魔化した。
「捨ててはいないから、多分どこかにあるはずだ。探してみるけど、当てにしないでくれよ」
面倒くさそうにそそくさと電話を切られた。あまり期待はできそうもないが他に策はない。
高橋からの連絡を待つ間、私とてじっと手をこまねいていたわけではない。
私は昔の住所を訪ねてみた。父親の仕事の都合で、高校卒業後に引っ越したと聞いた。今そこは空き地になっていて、近所で尋ねても引越先は知らないとの答えが返ってきた。
市役所で転出先を調べようとしたが、個人情報保護を盾に断られた。
会場だったホテルにも当たってみた。だが四年前のことではもう記録は残っていないと素気なく告げられた。
私の足掻きはことごとく徒労に終わった。
この上は高橋が頼みの綱だ。私は待ちきれなくて、何度か電話を入れた。しかし「俺は、お前みたいに暇じゃないんだよ」と露骨に嫌な顔をされた。確かにそうかも知れないが、鼻であしらわれたみたいで悔しかった。
私が腹を割って話さなかったことで、彼も親身にはなれなかったようだ。でもやはり全てを打ち明ける気にはなれなかった。
探偵や興信所に依頼することも考えたが、それは最後の最後の手段だ。やはり君の捜索を他人の手に委ねたくはなかった。何としても自分の手で……。
やきもきしながら待つこと二ヶ月弱。本当に長かった。
やっと高橋から電話が掛かってきた。
「結局、俺のは見つからなくてさ。塚本って、お前覚えているか、三年の時同じクラスで野球部だったヤツ。その塚本と、佐々木、こいつは何部だったかな、他にも数人に連絡して探してもらってよ。大変だったぜ」
「……」
「あとこれは塚本からの情報だがな、貫田さん、ほら俺達のマドンナだった冴子ちゃん、朴念仁のお前は興味ないか、彼女が結婚したって噂でさ。誰だか知らないが、超ラッキーなヤツだな」
恩着せがましい前置きが長々と続く。私は内心じりじりしながらじっと待った。
「早苗のヤツも、こんなこと言ってたな。一度、二人連れで歩いているのを見たそうだ。相手は知らない男だったらしい。結婚したらしいって教えたら、私の結婚式には招待したのに呼んでくれなかったって、ブツブツこぼしていたな。その後、長々と子どもの話と亭主の愚痴を聞かされてよう、参ったぜ」
意外な所に私達の痕跡があった。それ僕だよと喉まで出掛かったが、ぐっと堪えた。
早苗が誰か分からないが、おそらく高橋が連絡したと言う内の一人だろう。彼女が私を知らない男と言ったことに、少なからず傷ついた。
「ありがとう。いろいろと大変だったね」
「大変だったね、じゃないだろう。他人事みたいに。実際そんなんだから、お前、友達ができないんだぞ。まあ、俺には関係ないか。言っておくが、これは結構高くつくぞ」
「分かった。今度飲みに誘うよ」
「そうこなくちゃ。幹事やってたのは安村信次ってヤツだよ。電話番号は……」
私は、手帳に書き留めた。
「ところで、何を知りたいんだよ。そろそろ教えろよ。誰と連絡取りたいんだ?」
「それは今度会った時にでも……」
電話を切って時間を確認すると、午後十時を回っていた。
この時間に電話するのは非常識かなと思ったが、ここまでに随分時間を費やしている。番号は携帯電話のもので、家人に迷惑を掛けることはあるまい。
私は直ぐにダイヤルした。
「鈴木、雅人君だろう? 先ほど高橋君から電話があったよ。君とは一年の時、同じクラスだったんだ。覚えてないか?」
少し咎めるような口調に聞こえた。
「すまない。知っての通り、僕はあまり人と交わる方じゃなかったから。同窓会でも、来ていた人の殆どが分からないくらいでさ」
「そんなものか」
何が「そんなものか」は分からなかったが、言外の「冷たいヤツだな」だけは十分すぎるほど感じ取れた。
「で、用向きは何だ?」
「実は貫田冴子さんの住所が知りたいんだ」
私は単刀直入に言った。
「住所? うん、分かるよ。でも個人情報だからな。今は何かと五月蠅くて、本人に無断で教えるわけにはいかないぞ」
安村はもったいぶった言い方をした。私は、ど直球を投げ返した。
「僕たち、三年前に結婚したんだよ」
安村が受話器の向こうで息を飲む音が聞こえた。これは利いたようだ。どうやら彼も君の熱烈なファンで、結婚したという噂に衝撃を受けた一人だったようだ。
「同窓会の途中で、彼女、いなくなっただろう。あの時、僕たち連れだって抜け出したんだ」
えっ。安村の声が強張った。やはり騒ぎになっていたようだ。私はその時のことを簡潔に話してやった。
「何で、お前が……」
安村が立ち直れないうちに、私は畳みかけた。
「妻とちょっと行き違いがあって、実家に帰ってしまったんだ。迎えに行きたいんだ。教えてくれ」
茫然自失になった安村は、あっさりと教えてくれた。
「何でお前なんかと……」
置きかけた受話器から悔しさがたらたら漏れていた。
やっと、私は君に辿り着けた……。
<続く……>