【連載小説】10 days (1/21)
1.プロローグ
1.1
梅雨晴れの午後だった。
「いい葬式だったな」
背中で声がした。植村佑斗が振り向くと、老人がタバコを燻らせながら近づいてきていた。
「えっ、源さん?」
おう。
橘源三は小さく手を上げた。暫く見ないうちに髪もすっかり薄くなり、随分シワも増えたように見える。
佑斗は長年の無沙汰を詫びた後、さっきの言葉の意味を尋ねた。源さんはふうと紫煙を吐きながら、
「その通りの意味だ。お前は、葬式にいいも悪いもないと思うだろう。だがな見てみろ。あんなに大勢の人が別れに来て、あいつを惜しんで涙を流してくれる。だからいい葬式なんだ」
源三があいつと呼ぶのは、佑斗の祖父、田原健一のことである。二人は飲み友達でありケンカ友達でもあった。
源三が言いたいことは佑斗にも何となく分かる。そんな風に割り切れたらどんなに楽だろうと思うが、如何せん、心にぽっかり穴が開いたような喪失感や、言いようのない悲しみはどうしようもない。
佑斗が黙っていると、源三は煙がしみたのか目をしょぼつかせながら、
「ママも来てたな」
と話を変えた。ママと言うのは、健一が馴染だったスナック『サクラ』のママ、内田さくらのことである。源三と健一はママをめぐって恋敵同士でもあった。
「そうだね」
「ママ、泣いていたな」
「うん」
源三は短くなったタバコの火を指で摘まんで揉み消し、携帯用灰皿に入れてズボンのポケットに仕舞った。
昔から所構わずプカプカやるが、決してポイ捨てはしない。口には出さないが、それが源三の決め事だと佑斗は知っている。一旦決めたらとことん守る、それを自分の矜恃としている。それでもこの頃は何かと世間が禁煙だ嫌煙だと五月蠅いので肩身が狭いと、珍しく愚痴をこぼした。
「俺の時も泣いてくれるかな」
源三がぼそりと呟いた。佑斗がどう答えたらいいのか困っていると、
「もし泣いてくれたら嬉しいけどよう、俺にはそれを確かめようがないんだよな。あいつの時は、俺がそれを見て悔しがったけどよう、俺ん時はあいつはいねえしなぁ」
ちくしょうめ。源三はハンカチを取り出して、鼻を噛んだ。
「ママは絶対泣いてくれるよ。僕が、そのことを源さんの墓前に報告するよ」
「お前、優しいな。ありがとうよ」
源三はハンカチを畳みながら、
「あの野郎、俺にこんな思いさせやがって。ほんと、ふてぇ野郎だ」
と大きな音でまた鼻を噛んだ。
「ところで……」
源三の目がキラリと光る。
「お前、さっき、どさくさに紛れてママと抱き合ってたな」
「違うよ。あれは、ハグだよ、ハグ」
「何が、ハグだ。そうだ、思い出したぞ。前にもそんなことがあったぞ」
佑斗は源三のしつこさに辟易する。
「だがら抱き合ったんじゃなくて、ハグだって。挨拶だよ」
「そうか。じゃあ、俺とも、そのハグとやらをやってみるか」
源三は指をポキポキ鳴らしながら近づいて来る。
「僕、まだやることがあるから……」
這々の体で逃げ出そうとすると、源さんは、
「お前、いつまでこっちにいられるんだ?」
と背中に声を投げてきた。
「一週間ほどいるよ。色々と片付けが残っているし……」
「そうか。落ち着いたら、顔出せや。俺は大抵ママんところにいるからよぉ」
「うん、分かった」
源三は、じゃあなとばかりに手を振って斎場を後にした。佑斗は立ち止まって、源三の背に深々と頭を下げた。
1.2
三日後。
昼過ぎになって、佑斗はスナック『サクラ』に向かった。葬儀の時、ママにはお礼を言うのが精一杯で、ろくに話もできなかった。
途中の商店街は、佑斗が知っていた店並と大きく様変わりして、観光客相手の店が多くなった。変化は世の常とは言え、ここまでがらりと変わってしまうと逆に小気味がいい。そんな中で昔と変わらない店構えのスナック『サクラ』を見ると佑斗はほっとした。
「ママ、いる?」
裏口のドアを開けると、中から笑い声が聞こえた。首を突っ込んで中を伺うと、カウンターを挟んで、源三とママが話しているのが見えた。
「ママーっ」
佑斗が足を踏み入れると、二人は振り向き様ぎょとした顔になった。
「嫌だ、ユウくん、驚かさないでよ。てっきりケンさんかと思ったわ」
親しい友人・知人は健一のことをケンさんと呼んだ。丁度戸口に立った佑斗は、二人にとって逆光になって、そのシルエットが健一によく似ていたらしい。
「声も、のっそり入ってくる感じも、少し背を丸めて歩く様子も、そっくり」
佑斗は、二人がもっとしんみりしているのかと思っていたから、少し拍子抜けした気分だった。
「来てくれたのね。嬉しいーっ」
ママはカウンターの中から飛び出し、駆け寄って、佑斗に抱きついてきた。佑斗は源三の刺すような目が気になって仕方ないが、ママはなかなか離れようとしない。
「お前、先日俺が言ったこと、忘れてないよな」
源三の顔が次第に険しくなってきた。佑斗は急いでママを引き剥がした。入れ替わりに源さんが佑斗の両肩をがっしり掴んだ。
「そうか。昨日はそんなことに気が回らなかったが、お前、ほんとケンさんに似てきたな。背も伸びたし……」
言葉は柔かいが、力の入れ具合はそれに反して段々強くなる。
「源さん痛いよ」
源三はやっと解放してくれたが、眼光の険しさは変わらない。
「背格好もそうだけど、そうね目元なんかそっくり。ケンさんが生き返ってきたみたい」
「嫌だなあ、ちゃんと足はありますよ。何なら今度は、僕が夢枕に立ちましょうか?」
佑斗がそう言うと、ママは一瞬きょとんとした顔をしたが、直ぐにその意味を理解して、腹を抱えて笑い出した。
「ママ、どうしたんだ? おい佑斗、どういう意味だ。俺にも分かるように説明してくれ」
「何でもないですよ、昔のことです」
と佑斗が言うと、ママは涙を拭きながら、
「ユウくん、そんな軽口も叩けるようになったのね」
と笑う。源三は一人蚊帳の外に置かれ面白くない。源三は佑斗の首に腕を回して引き寄せ、
「まあ今度、二人だけでゆっくり話そうや」
と脅すことを忘れない。相変わらず血気盛んなじいさんだ。
「この辺りも、すっかり変わってしまったでしょう?」
「そうですね。幾つかは分かったんですが、後はさっぱりで……」
「そうね。昔のままなのは、うちだけかしら」
ママは煙たそうな顔をしてタバコに火を着けた。カウンターの上で灰皿に立て掛けられたタバコの煙がたゆたう。
「ケンさんへの線香代わりよ」
吸い口に付いた口紅が赤い。
「ケンさん、タバコ、吸ってなかったよ」
「構はないわ。煙たかったら、ケンさん、何か文句言ってくるでしょう」
「ねえ、覚えてる? ケンさんが初めて店に来た日のこと」
「ああ」
源さんの声は心なしか元気がない。
「ユウくん、聞いてよ。ケンさんとこの人、こともあろうに、初対面で、取っ組み合いのけんかをしたのよ」
「原因は何だったんですか?」
「あっ、それ、私も聞きたい」
「えっ、ママも知らないの?」
「この人達、出入り禁止にすると迫っても、教えてくれなかったのよ」
「いや、それは……。どうせ気に入らねえとか何とか。そんな子供じみた理由だよ」
「うそ。今日は教えてくれないと、今度こそ出禁にするわよ」
源さんはほとほと困った顔をした。
「止めてって言っても、なかなか止めないから、私が頭を冷やしなさいって、コップの水、ぶっ掛けたの」
「コップなんかじゃないよ。バケツだよ、バケツ」
「バケツじゃないでしょう。この細い腕、見てよ」
とぷるぷる揺れる二の腕を挙げた。
「違ったかな? どっちにせよ、水ぶっかけられたことは事実だよ。あの時は死ぬかと思ったよ。十二月だぜ、十二月。真冬だぞ」
「はい、その話はお終い。いい、もう一度聞くわね。原因は何だったの?」
ママは有無を言わせない。
「あいつを見るママの目が、面白くなかったんだよ」
「あら、嬉しいじゃない。こんなお婆ちゃんに、焼き餅焼いてくれたの?」
「ママは今でも若くてきれいだよ」
源さんの声が細る。ぼそぼそ呟く。
「えっ、何。よく聞こえなかった。もう一度」
「ママは今でもきれいだよ」
「えっ、まだ聞こえなーいっ」
ママはなかなか意地悪だ。
「ママは今でも十分にきれいだよ」
源さんは声を張り上げた。
「ありがとうね。そんなこと言ってくれるの、もう源さん一人になっちゃった……」
ママの声が震える。
「あっ、ごめん、しんみりしちゃったわね」
「ところで、お前が初めてここに来たのはいつだ?」
「中学一年の時だから、十年ほど前ですね」
「お前、あの頃は青っちょろくてよぉ。全く図体ばかり大きくなりやがて」
「でも、あの時、ケンさん、とても喜んでいたわ。絶対言うなって口止めされてたけど、あなたが来たことを本当嬉しがっていたのよ」
佑斗は驚いた。とてもそんな風には見えなかった。いつも眉間に皺を寄せていた記憶しかない。
「でも、ケンさんからは迷惑だって。十日間だから我慢しろって。そうはっきり言われたよ」
そう言うと、
「あの人、素直じゃいからね」
「いつもお前の話ばっかりで。俺なんか、お前のことをちょっと悪く言ったら、あいつにこっぴどくどやされたんだぜ」
「えっ、本当ですか?」
「いつだったか。お前があいつを迎えに来たことがあっただろう。あん時のケンカの原因はお前だったんだ」
「へーぇ、ケンさん、そんなこと一言も言わなかったよ」
「お前を出しにして、ママに昼をご馳走になったって、後から知って、太てえ野郎だって、つい手が出ちまった」
「ホント、馬鹿みたい」
「ケンさんが最後にここに来たの、三ヶ月ほど前だったかしら……」
呟くママの声が湿る。源三が頷く。
「暫く帰らないって東京に行ったのが、半年ほど前かしら。それから連絡もなかったけど、ひょっこり顔を出してくれて。少し痩せたかなと思ったんだけど、ダイエットしているんだって言うから……」
「俺にも、長生きしたかったら、少し腹の贅肉落とした方がいいぞって、ほざきやがった。それなのに、てめえの方が先に逝きやがって。大馬鹿野郎だよ」
「随分前から体調が悪かったみたいです。祖母に無理矢理連れられて病院で検査したら、その時はもう手遅れでした。延命のための治療なら受けないと、それはもう頑固で。体が言うことを聞くうちに、お世話になった方々に挨拶だけはしておきたいって、母は止めたらしいですが、祖母はどうせ言っても聞かないわよって、鼻から諦めていたそうです」
「早すぎるよな」
「ケンさん、楽しい人だったわね」
ママは笑いながら涙を流していた。
「俺はけんかばっかりしていたな」
源三は佑斗の首に回した腕を締め付けるのを忘れない。
――ケンさんに会って僕は変われたんだ。少し恐いところもあったけど、面白い人だったな。
佑斗は、中一の夏、祖父と過ごした十日間に思いを馳せた。
<続く>
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