【短編】ターミナル(2/2)
(3,121文字)
定年を迎えて、妻と二人で過ごす時間が増えた。徒然に話していると、省かれていても明らかに孝夫が主語だとわかる話が多いことに気づいた。短い会話の中にも我が子に対する思いを覗かせる。
ついこの間もそうだった。朝、花火の音がして、「運動会か?」と私が独りごちると、妻が、「直ぐそこの小学校ですね」と話の穂を拾う。この辺りでは、小中学校の運動会の朝に花火を打ち上げ、開催を知らせる。
「徒競走、楽しみでしたね。いつも一等賞で。孫も足が速いといいんですけど」
妻がぽつりとこぼす。私の返事を期待していない口ぶりで。
「そうだったか?」
案の定、私は孝夫の雄姿を覚えてもいない。
妻は元々口数が多い方ではなかったが、あの日からずっと話の端に息子のことを滲ませてきたのかと思うと、私は慚愧の念に襲われた。私が意固地だったばかりに、妻には随分と辛い思いをさせてしまった。妻がいたく不憫に思える。丸めた背が小さく見える。しわも目立つようになった。無理もない。妻は今月の半ばに還暦を迎える。
――今頃、あいつはどうしているんだろうか?
この所、折に触れそう考えている自分に気づく。そんな時、認めたくはないが自分の老いを感じる。そして悔いを残したまま人生に幕を引きたくないと切に願うようになった。
そんな折の電話だった。私は孝夫から差しのべられた手にすがった。会って許しを請い、時々でも妻と会ってくれるよう頼もう。そのためには、土下座だろうが何だろうが、何でもする。そう覚悟を決めた。
やっと改札口付近の人の流れが絶えた。それを待っていたように、孝夫が右の方を向いて手招きした。
あっ。妻が小さく声を上げて立ち止まった。妻の視線を辿る。券売機の脇から男の子が孝夫に駆け寄る。その後を、その母親らしき女性がゆったりとした足取りで追う。
「おいっ、あれって」
驚きが声に出た。妻が頷く。孝夫は中腰で鉄砲玉を受け止め、抱え上げた。
――そうか。孝夫もそういう年か。
そこには私達が知らない、孝夫の過ごしてきた時間がある。そんなことは、自ずと想像できたはずだ。だが私の中の孝夫は、家を出て行った時のままだった。それが一気に目の前の孝夫に置き換わっていく。私はそのことに戸惑いを感じた。
――この空白を埋められるだろうか。
ふっと不安がよぎる。しかしそれが無理でも、私は前を向いて歩いていくしかない。
すぐ横で妻の鼻をすする音がした。少しでも気を抜けば、私もそれに引き摺られそうになる。私は歯を食いしばった。
改札口を抜けた。孝夫は子どもを下ろして、川の字に並ぶ。母親が小さく頭を下げた。男の子が母親に背を押されて、俯いたまま一歩前に出た。私は母親に会釈を返して、彼の前にしゃがむ。両肩にそっと手を添えた。妻も膝を折る。
「こんにちは」
妻の呼掛けに、「こんにちは」と消え入るような声が返ってきた。
「大きくなったわね」
妻がしみじみと言う。私は思わず妻を見た。
「お前、知っていたのか?」
「ええ」
その後に続く言葉を待ったが、妻はそれ以上何か言う様子はなかった。きれいにセットされた髪が目に入る。白髪も染めたようだ。いつ美容院に行ったのだろうか。たった今まで気づかなかった。
妻は先日の電話の後、「あなたが怒ると思ったから黙ってましたけど、あれから一度だけ孝夫から電話があったんですよ」と打ち明けた。元気にやっているから心配しないでくれって。家を出て数ヶ月経った頃だったと言う。
――そういうことか。
どうも孝夫からの連絡は、一度きりではなかったようだ。蚊帳の外に置かれていたのは不快だが、当時の私は、そんな細い糸さえ引きちぎりかねなかった。賢明な判断だったと思う、今は孝夫を繋ぎ止めていてくれたことへの感謝の念でいっぱいだ。
はにかみ屋さんが母親を見上げた。母親は笑みを浮かべ、小さく顎を引く。彼はそれを見て、すぐに私達に視線を戻した。
「僕のジイジとバアバなの?」
私と妻の顔を交互に見ながら尋ねる。ああ、そうだ。私は胸が迫って、その一言が出ない。ただ何度も首を縦に振った。妻は手を伸ばして、その存在を確かめるかのように、そっと彼の頬を撫でる。鼻をすする音がいっそう激しくなった。
「明美に健太。健太は六歳になった」
そう言いながら孝夫は健太の傍らに膝を折る。
そうか、健太か。目元が父親によく似ている。考えるより先に体が動いた。私は健太をぐっと抱き寄せる。健太は一瞬体をピクッと震わせたが、そのままじっと身を任せた。健太は温かく、日向の匂いがする。たぶん父親と公園ででも遊んできたのだろう、甘酸っぱい汗の匂いが混ざっている。こうしていると健太の熱が体に浸みてきて、心の空白を満たしてくれる。
どれくらいそうしていたのだろう。知らずに力が入っていたらしい。健太が体をもぞもぞ動かす。すまん。私は慌てて手を解いた。健太は早足に母親の後ろに隠れる。明美は健太の頭を撫でて大役を労った。
「来年、小学校に上がるんだ。だからその前にどうしても二人に挨拶がしたいって、明美が……」
孝夫は鼻の頭を人差し指で掻きながら、笑みを浮かべる。
――そう、照れくさい時のこの子の癖だった。
こうして孝夫の顔を正面からじっくり見るのは、随分久しぶりのような気がする。優しい目だ。面構えも中々逞しくなった。私は思わず孝夫の肩を掴んだ。
「すまなかった」
それだけ言うのが精一杯だった。孝夫は小さく首を振りながら、私の手に自分の手を重ねて、
「母さんとの約束、やっと果たすことができたよ」
と言う。妻は繰り返し、繰り返し大きく頷いた。
――母さんとの約束?
私は妻の横顔をじっと見る。不意に、最近妻の口から『孫』という単語を聞いたことを思い出した。
――そうか、そうだったのか。
妻は、日頃の会話の中にそれとなく孝夫から得た情報を埋め込んでいたのだ。すぐには思い浮かばないが、そんなことは、たぶん今までに幾度となくあったはずだ。その中には、孝夫との『約束』とやらも仄めかされていたに違いない。情けないことに、私はずっとそれに気づけずにいた。
「ここでは何だから、家に来て。少し早いけど、ささやかながら母さんの誕生日のお祝いも用意しているから」
孝夫に促されて私達は立ち上がった。
「狭い所ですが、どうぞいらしてください」
目立ち始めたお腹に庇うように手を置く明美。気になって、つい目が行ってしまう。孝夫がそれに気づいて、
「三月にはもう一人増えるんだ」
と、また鼻の頭を掻いた。
「本当はお伺いするつもりでいたんですけど、孝夫さんが私の体を気遣ってくれて……」
ご足労を掛けてすみません、と明美は頭を下げた、
ううん。妻は首を横に振る。
「やっと……ここまで……たどり着いた……」
途切れ途切れに吐き出す言葉が途中から嗚咽に変わった。孝夫は思わす上を向く。顔がゆがんだ。
この日を迎えるまでに、本当に、本当に長い時間を費やした。私は鼻から大きく息を吸って、胸一杯に込み上げてくる熱いものをぐっと抑え込む。
「いいえ、これから新たに始まるんですよ」
はっとして、声を追う。
「ここが始発駅ですよ、お義母さん」
目を真っ赤にした明美がしっかりと妻の手を取る。
私の限界だった。
「親父も随分涙もろくなったな」
孝夫は目尻を指で拭いながら笑った。