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【ショート・ショート】何のために
「これは、なーに?」
健太が黄ばんだ一枚の紙切れを差し出す。
「ん?」
手渡された四つ折りを開くと、鉛筆書きの拙い文字で『人は、なぜ生きているのか』と走り書きがある。多分、私の子供の頃の筆跡だ。
「どこで見つけたんだ?」
「この本に、挟んであった」
それは小学校低学年向けの昆虫の図鑑だった。教科書は疾うの昔に処分したのに、何故かこれだけは捨てられずに残していた。
私はしばし記憶の森を彷徨う。
「ああ、思い出した」
「なーに?」
「丁度お前ぐらいの年頃かな、理科の先生に質問した時のメモだな」
「ふーん」
なーに君の好奇心は直ぐに何処かへと飛んで行きそうになる。
「そしたらな……」
すかさず私は健太を引き戻しに掛かる。
「そしたら」
「わからないって、先生言ったんだよ」
「えっ、先生にも分からないこと、あるんだ」
「そりゃ、そうさ。それでな……」
私が言葉を繋ぐ前に、いつからいたのか妻が、
「あら、その答え、ママ、知ってるわよ」
と口を挟んできた。
「えっ、本当?」
「それはね……」
妻はそこで言葉を切って、にこりと笑った。妻は、健太の心を掴む術を熟知している。
「なーに?」
「それはね……」
妻は溜めに溜めて、健太の逸る気持ちが頂点に達した所で、
「パパは、ママのために生きているの。ママは、パパのためにね」
と言った。私はあんぐりと口を開けて妻を見る。
「じゃあ、僕は?」
「もちろん、パパとママのためよ。そして、パパとママは、健太のためによ」
「ママ、すごーい」
私はすっかり毒気を抜かれて声も出ない。
「でしょう。じゃあ健太、ジュース持ってきて」
妻は、健太を体よく追いやって、私を睨む。
「子供相手に、重すぎる話はしないで」
「してないよ」
「でもあそこで私が割り込まなければ、あなた、また小難しい話をしたでしょう。家には、そんな理屈っぽい人、二人もいらないの」
後日。
「ねえ。これ、なーに?」
なーに君のアンテナにまた何か引っ掛かったようだ。
「どれ、どれ」
妻が近くにいないのを確かめて、私は健太に声を掛ける。
先日はまんまと鳶に油揚げをさらわれた。今度こそ、「パパ、すごいね」って言わせてみせる。
妻にばかり良い格好はさせてなるものか。
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