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【連載】冷蔵庫と魔法の薬 (10)

10.岐路

「あっ、それ。もらうぞ」
 健二は、環がテーブルに出しっ放しにしていた瓶を目敏めざとく見つけた。
「あっ、それはだめ!」
 環が止める間もなく、健二は黒ラベルの栓をこじ開けるや否や、手のひらに数粒を落として、ぽいっと口に投げ入れた。ぽりぽりと噛み砕く健二。愕然がくぜんとして見つめる環。
「だめだって……」

「水……」
 環はさっと立ち上がると、冷蔵庫からペットボトルを持ってきた。健二は一気に飲み干すと、ふーっと息を吐いた。気づくと環がうっすら目に涙を浮かべている。
「ごめん、勝手に食べて悪かったよ。でも泣くことはないじゃないか」
「だって……その薬……」

「薬? 何のことだ。それにしても、よく知っていたな」
「えっ、何を?」
「ラムネ菓子が二日酔いに効くってことをさ」
「ラムネ……菓子……?」
 えっ。環の目が点になった。
「そうだ。ラムネ菓子の成分は、ほとんどがブドウ糖なんだ。二日酔いの原因であるアセトアルデヒドを分解するには、大量のブドウ糖が必要なんだよ。だから効くんだな、これが」

「えっ、それ、本当? じゃあそのことをジェニーさんも……」
「ああ、知ってるはずだ。いつだったか、彼女の酒が過ぎた時に、俺があげたことがあるから。そう言えば、彼女もこれに似たような小瓶を、いつもハンドバッグに忍ばせていたな」
「うそーっ」
 環は思わず声を上げた。

「どうした?」
 ううん。環は首を振る。
 ――かつがれた。それにしても迫真の演技だったわ。
 しかし不思議と腹は立たなかった。環は、ため息をきながら、天を見上げた。そうするうちに可笑おかしくなってきた。
「どうしたんだ?」
 猫の目のようにころころ変わる環に、健二は訳が分からず、その横顔をじっと見ている。


「お前、今日は何だか少しおかしいぞ。どうかしたのか?」
 環は目頭をハンカチで押さえながら、
「おかしくもなるわよ。だって、ニイニは会社だって嘘ついて、ジェニーさんと会っていたし。ジェニーさんから私の知らないニイニのこと、いっぱい聞かされたし。でも、私の目の前にいるのは、いつものニイニだし。魔法の薬は嘘っぱちだったし。ジェニーさん、まだニイニのこと、好きなんだよ。私だって、ニイニのこと死ぬほど好きなのに……。ニイニは私のこと、全然見てくれないし……」

 環はついに泣き出した。
「もう、何が何だか分からない……」
 健二は環をそっと肩を抱きしめた。環は腕の中で震えている。
 ――そう言えば、恐い夢見たって俺の布団に飛び込んできた時も、泣きじゃくる環の肩を抱いていたっけ。
 そうするうちに次第に環は落ち着きを取り戻した。

 環は昼前の新幹線で帰っていった。

 三日間いただけなのに、環がいなくなると急に部屋が広くなった気がする。空気が冷え込んで、しーんと静かになった。誰かが同じ空間にいるという感覚は、あればあったで鬱陶うっとうしく思う時もあるが、なくなればなくなったで寂しいものだ。


 その頃。
 ジェニーは、ホテルに戻りシャワーを浴びて、くつろいでいた。
 ――徹夜は堪えるわ。 
 眠気覚ましのコーヒーを手に、窓際のソファーに座った。
 ――魔法の薬の話は上手くいったわね。多分、環は信じたはず。
 ジェニーは大好きなホラー映画から学んだ演技には自信があった。
 ――でもタマキは頭がいいわね。次々と要所を付く質問を浴びせてきたわ。もう少しで私の作り話がばれそうになったもの。

 ジェニーは昨日からのことを回想する。
 今度は私がケンジに歩み寄るつもりだった。だけど、ケンジの冷蔵庫の話は、効いた。すっかり出鼻をくじかれたわ。
 彼の理想はそんな家庭を築くこと。その中に私は入れない。いいえ、はなから私は存在しなかった。自分じゃ気づいていないかも知れないけれど、ケンジの心はタマキで占められている。
 私はいつも幾つかの中から最もいい選択をしているつもり。今日もそう。でもそれが幸せだとは限らない。だけど私には他の道は選べないもの。

 コーヒーがとても苦く感じられた。

 ――夕べはちょっと飲み過ぎたわ。
 ジェニーはテーブルの上に置いたハンドバッグから黒瓶を取り出した。

 ――こんないい女を袖にして、ケンジ、絶対後悔するぞ。

 ジェニーは、その中から白い粒を幾つか取り出して、ぽいっとばかりに頬張ほおばった。

<終わり>


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