![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/159986588/rectangle_large_type_2_5149d4a1feb12e7a266a4a4bfabfcd27.png?width=1200)
【連載小説】10 days (8)
5.四日目(火曜日)
5.1
「午前中、俺は原稿を書くことに専念する」
朝食の後、健一が告げた。健一の職業が執筆業だと、昨日初めて知ったばかりだ。
「僕が来たせいで、遅れたんですか?」
「そうじゃない。子供がそんなこと、気にしなくていい。お前、午前中、どうする?」
佑斗は昨日の魚を釣った感触がまだ手に残っている。
「釣りに行ってもいいですか?」
「いいが、一人で平気か?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、気を付けてな」
佑斗が商店街をぼちぼち歩いていると、『フルーツパーラー橘』の小母さんから声を掛けられた。
「あら、ケンさんちのお孫さん」
まだ二度目なのに顔を覚えてもらったことが、恥ずかしいような、くすぐったいような、でも何だかとても嬉しかった。
「植村佑斗です」
自分でも驚いたことに自然に言葉が出ていた。
「ユウ君でいいわね。今日は一人?」
「はい」
「ケンさんは仕事?」
「はい。ですから、僕は釣りでもと思って……」
「感心ね。ユウ君、じゃあこれ持って行きな」
プラスチックケース入りの、小さく切り分けられた西瓜をくれた。
「ありがとうございます」
佑斗はクーラーボックスにそれを仕舞い込んだ。
堤防に着いた。釣り人はまばらだった。直ぐさま準備に取り掛かった。
佑斗は折りたたみ椅子に腰掛け小一時間ほど糸を垂らしていたが、一向に中りが来ない。竿を上げ、餌を取り替え、投じる。先ほどから、この一連の行為を繰り返している。昨日と同じ仕掛けなのに、釣れない理由が分からない。
「なっ、昨日のはビギナーズラックだと分かっただろう」
健一がいたら、きっとそう笑っただろう。
仕方なく佑斗は釣り糸を垂れながら波を見ていた。遠くから押し寄せてきた波が、岸壁にぶつかり砕けて小さな波になる。果てなく繰り返される自然の摂理。それをぼーっと見てると自分の悩みも打ち砕かれるような気がした。
――少し早いがママの所にでも行くか。
佑斗が道具を片付けながら辺りを見回すと、いつ来たのか覚えのある麦わら帽子が目に入った。
――あっ、師匠だ。
もしかしたら会えるかも知れないという淡い期待があったが、実際に姿を目にすると何を話していいか分からなくなる。
――気づかなかった振りして、このまま『サクラ』に行こうか。
臆しそうになる気持ちを奮い立たせて、佑斗は師匠に近づいた。佑斗の心臓が早鐘を打つ。
「こっ、こんにちは」
佑斗は思いきって声を掛けた。師匠が振り向く。
「あら。一昨日、ケンさんと一緒だった……」
佑斗は彼女が自分のことを覚えてくれていたことが嬉しかった。
「ぼ、僕、孫の、植村佑斗です」
「私は、松原夏美。夏に美術の美で夏美。八月生まれだから夏美。単純でしょう」
佑斗はその答えにどう応じればいいのか分からなかった。佑斗はそれには触れずに、
「横に並べてもいいですか?」
「どうぞ」
「ありがとう」
佑斗は竿を取り出して準備する。緊張で餌が上手く針に刺さらない。何とか餌を付けて投じる。師匠はじっと浮きを見つめたまま、まんじりともしない。
直前に考えた話題が尽きると、佑斗にはもう話すことがなくなった。沈黙が重い。何か話さなくてはと焦る。だが焦れば焦るほど、喉が貼り付いたようで言葉が出ない。照りつける太陽と焦りで佑斗は頭がくらくらした。
その時、クーラーボックスに入れた西瓜を思い出した。これぞ天の助けとばかりに、
「これ、食べませんか?」
と少し裏返りそうな声でカットスイカを勧めた。
「いいの? 私、すいか大好き。じゃあ一つもらうわ。ありがとう」
よかった。ほっとした途端、顔中から汗が吹き出してきた。
――これがケンさんがいった「汗を掻いて話せ」ということか。
でもこれで佑斗は少し気持ちが楽になった。
「ここに来る前に、果物屋の小母さんにもらったんです」
「ああ。あの小母さん、お喋りで、面白い人よね」
「そうですね」
佑斗はすっと肩の力が抜けるのを感じた。
「メルアド、教えてもらってもいいですか?」
と言いながら余りに唐突だったと思ったが後の祭。
「ないわよ。私、携帯、持ってないもの」
「えっ。だったら友達と連絡を取る時、どうするんですか?」
「普通に家に電話すればじゃない。顔を見て話したかったら、家に行けばいいし」
「でも、それって面倒じゃない?」
「ちっとも。だって友達だもん」
「えっ?」
佑斗にはその答えが新鮮だった。クラスの村木裕也とはよく一緒に遊びに行ったりするが、連絡はいつもSNSだ。文字で用件を告げて、文字で返事をもらう。だから先週の土曜日市民プールに行く予定だったが、ドタキャンしても何の不平や不満もなく「わかった」と文字が返って来た。間に顔も肉声も介在しないから、熱も感情もない。だからがっかりしているのか、怒っているのかも分からないが、気にしたこともなかった。
「そうか。そうですよね」
「ところで、釣れたの?」
「いいえ、今日はさっぱりです」
「見せて」
夏美は竿を受け取ると、微調整を施した。
「これでやってみて」
直してもらった竿で糸を落とすと、早速中りが来た。
――この人、すごい!
佑斗は心からそう思った
「あのーぅ、僕も師匠と言わせてもらってもいいですか?」
「やめてよ。ケンさんにもそう言ってるんだけど、ちっとも聞いてくれないの」
三年程前。健一は港の近くの釣り具屋で釣りセットを買った。それを持って防波堤で釣り糸を垂らしていた。しかし、一時間経っても中りさえなかった。三時間ほど粘った。そろそろ諦めかけた時、偶々通りかかった夏美が声を掛けてくれた。それがなければ、健一はとっくに釣り竿をへし折っていたことだろう。
「ここは初めて?」
「ああ」
「ちょっと見せて」
夏美は、健一が差し出した釣り竿を素早くチェックして、
「これじゃあ、だめよ。今は小鯵がよく釣れるから、針はもっと小さめにして、浮きはこれくらいかな」
と言いながら、その間も手は休むことなく針を付け替え、浮きを交換し位置を調整した。健一はその流れるような手際の良さに思わず見とれてしまった。
「これでいいと思う。やってみて」
糸を垂らすと直ぐに中りが来た。
「今よ、竿を上げて」
指示通りに竿を上げると、十センチほどの銀鱗が太陽の光を反射させた。健一の記念すべき初めての釣果だった。
「その調子よ。じゃあ頑張って」
それからの一時間で、健一は十五匹の小鯵を釣りあげていた。あの時の感動は今も忘れられないらしい。
それ以来、健一は夏美のことを師匠と呼び勝手に弟子入りしてしまった。夏美は最初その呼び方を嫌がっていたが、そのうち何も言わなくなった。
「ダメですか?」
「どうせ断っても、そう呼ぶんでしょ。そんなところ、ケンさんと一緒。だったら、せめてタメ口にして」
「じゃあ僕は、そろそろ『サクラ』に行きます」
「ほら、もう忘れてる。タメ口!」
「そうか」
佑斗は一呼吸置いて、
「僕、そろそろ行くよ」
「うん」
「じゃあ、また午後に」
「ええ。また」
佑斗が食べ終わる頃、入れ替わりで健一が『サクラ』に顔を出した。
「ケンさん、仕事は終わったんですか?」
「あー、大体な」
「それじゃあ、今日はビールなしよ」
「えっ」
「えっ、じゃないわよ、酒ばっかり飲んで。大人がきちんと仕事してる姿を 子供に見せないとダメでしょう」
いかん、分が悪い。健一は急いで話題を変えた。
「釣れたのか」
「少し。ママ、この南蛮漬け、とても美味しかったです。ご馳走様でした」
「あら、そう。とっても嬉しいわ。ケンさんなんて、一度も美味しかったって、言ってくれたことないわよ」
ママは「いいわよ」と言ったが、佑斗は食器を流しまで運んだ。
「そんなことはないだろう。ちゃんと旨いって言ってるよ」
「いいえ。店に来てくれるようになって、もう十年にもなるけど……」
「一度くらいは……」
「いいえ。一度も」
ママは大きく首を振り断言した。
「それは面目ない」
「ルールその八。料理が美味しい時には、ちゃんと美味しいと言うこと、ですね」
「あら。ケンさん、ユウくんに一本取られたわね」
健一は佑斗をじろりと見る。佑斗はそんな健一を後目に、
「僕、また釣りに行ってきます」
といそいそと店を出た。
午後。
夏美との会話は午前中とは打って変わって大いに弾んだ。と言ってもほとんど夏美からの質問に答えるという形だったが、それでも佑斗は楽しかった。時間はあっという間に過ぎた。
「僕、そろそろ帰るよ。また明日」
「じゃあ、またね」
遠ざかる佑斗を、港に泊められた漁船の上から凝視している影があった。
佑斗が帰宅したのは夕暮れ時だった。健一は待ち構えていたように玄関に出てきた。
――心配させるほど、遅い時間じゃないよな。
そう思ったが、
「すみません。遅くなりました」
と謝りながら家に入ろうとして、佑斗は建一の服装に気づいた。
「あれっ。ケンさん、出掛けるんですか?」
「ああ。源三のやつから、誘われてな」
「そう言えば、日曜日の電話もそうだったんでしょう?」
「まあな。ただあの日は、疲れていたから止めたんだ」
「僕のことは気にしないで行って下さい。一人で待つの、慣れてますから」
あっ、いけない。佑斗は健一の顔が曇るのを見て、
「変な意味じゃないです。僕もそうしてもらった方が、気が楽ですから……」
と慌てて取り繕った。
「そうかぁ。悪いなぁ。お前を一人残すのは少し不安だが……」
そう言いながら、体半分をドアの外に出している。
「夕飯は用意しておいたから……」
健一はひょいと手を上げて、
「すまんなあ」
と後ろ手にドアを閉めて、いそいそと坂を下っていった。
5.2
電話が鳴った。反射的に時計を見ると、夜の九時を回ったところだった。
「もしもし。田原ですが」
「ユウくん? さくらです、スナック『サクラ』の。夜分に、ごめんなさいね」
大音量で流れる音楽に負けないように張り上げた、しかし申し訳なさそうな気持ちを十分感じ取れる女の人の声が聞こえてきた。
「あっ、ママ。いいえ、大丈夫です」
「ケンさんがね、酔っ払っちゃって。ユウくんを呼べって、騒いでるの。いつもはこんなこと、ないんだけどね」
受話器の向こう側で「おーい、佑斗ーっ」と呼ぶ声がママの声に被さる。
「何とかしてタクシーに乗せるから、その後はお願いできるかしら」
「はい、分かりました。祖父がご迷惑をお掛けして、すみません。ここの住所は、海南町五丁目……」
「えっ?」
ママが息を呑む気配がした。
「どうかしましたか?」
「ううん。何でもない。じゃあ、よろしくね」
十分ほどして、表に車が止まる音がした。
だがタクシーから降りてきたの健一ではなく女性だった。佑斗はそれがママだと直ぐには分からなかった。
「あっ、ママ。こんばんは。あの、祖父は?」
ママはそれに応じず、ただ家をじっと見ている。車内を覗き込んだが、健一の姿はなかった。
「あのーっ、祖父はどこでしょうか」
ママははっと現に戻った。
「ごめんね。やっぱりユウくんを呼べって、ケンさん、どうにも言うこと聞いてくれないの。悪いんだけど、私と一緒に来てくれない?」
「はい。分かりました」
佑斗は取り敢えず財布だけ持ってタクシーに乗り込んだ。
タクシーを待たせたままにして、佑斗達が『サクラ』に入ると、入り口付近スツールに健一が、奥のボックス席に男が一人、そっぽを向いて座っているのが見えた。
「おう、佑斗か」
健一は呂律が回っていない。ママが佑斗を呼びに行っている間、所在なく水割りを飲み続けていたようだ。
「ケンさん、大丈夫ですか?」
「お前、援軍を呼んだのか?」
背中越しに男が声を上げた。こちらも大分酔いが回っているようだ。
「何ごちゃごちゃ言ってるんだ。これ、俺の孫で佑斗だ」
男は振り向きざま一瞥をくれた。
「ふん」
佑斗は男の眼光の鋭さに怯んでしまう。
「チーちゃん、二人はさっきのまま?」
「はい」
チーちゃんと言うのは、ママの姪で内山千鶴と言い、時々店を手伝っている。チーちゃんを目当てに通ってくる 若い客も多い。ただチーちゃんの勤務は不定期で、いつ来るかママに聞いても分からない。
「あなた達がいっぱい来てくれて、店が忙しくなったら、頻繁に手伝いを頼むかもね」
将に会えたらラッキーだが、変に色目を使ったり、調子に乗って口説いたりしようものなら、ママにじろりと睨まれ、なぜか源三にまで凄まれる羽目に陥る。
それはさておき。
千鶴はほとほと困った顔だ。
「一体、何があったんですか?」
佑斗はママに尋ねた。
「さあ、私にもよく分からないの。この人達、急に取っ組み合いを始めて。私が割って入って、止めさせたけど、それきりあの調子なの」
ふうーっ。ママは大きくため息を一つ吐いて、
「兎に角、ケンさん、今夜はユウくんと一緒に帰って」
「さあ、ケンさん、帰りますよ」
健一は覚束ない足元で、
「ママ、チーちゃん、またね」
と佑斗に背中を支えられながら店を出た。
「ふん」
店の奥で男が息巻いた。
<続く>
いいなと思ったら応援しよう!
![来戸 廉](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/127889800/profile_2f091ac764a3b62274e671438dde944a.jpg?width=600&crop=1:1,smart)