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【ショート・ショート】時計

 トイレに時計を置こうと言い出したのは、夫だった。

 一日に数回、数分を過ごすだけの狭い空間には要らないと思ったが、それ以外に取り立てて反対する理由もなかった。もし気に入らなければ片付けてしまえばいい。そう軽く考えて同意した。


 数日後。
 外出から戻って玄関のドアを開けるや否や、けたたましい音が私の耳に飛び込んできた。
 どん、どん、どん、と壁を震わせている。何事かと、靴を脱ぐのももどかしく音のする方へ駆け付けた時には、夫はほとんど作業を終えるところだった。
「何しているの?」
 息せき切って尋ねた。
「見れば分かるだろう」
 夫の視線を追って壁を見ると、二箇所に釘が頭を出している。
「さあ、これでよし」

 その時になって私は、先日の夫とのやり取りを思い出した。そして壁に立て掛けてある大きな時計を見て、私は瞬時に理解した。夫が欲したのは小さな置き時計ではなく、壁に掛けるそれだったということを。
 それは、無骨な作りの、ほとんど床から天井まで届きそうなほど大きい振り子時計だった。
 しかも一旦時計を掛けた後、その位置が気に入らなかったようで、少し離れた位置に二本目の釘を打ち込んでいたのだった。

「何でこんな大きなものが要るのよ」
 夫が釘に時計を掛けるのと、私が抗議の声を発するのとは、ほぼ同時だった。
「いやあ、失敗しちゃって。この釘は後で抜くから大丈夫だよ」
「大丈夫って、そういうことじゃなくて……」
 私はその場にへたり込んだ。私は、窓際に置けるくらい小さいデジタル置き時計を想定していたのだった。

「いつ買ったの? どこで買ってきたの? いくらしたの?」
「まあ、それは、追々……」

 時計は、ほぼ便器の正面にあり、立つと文字盤が丁度顔と同じ位置になり、便座に座ると振り子が左右に振れるのを目の当たりにすることになる。
 カチ、カチ、カチ……。

「嫌よ、こんなの」
 元は広くて開放的だった。それが振り子時計に空間を奪われ、圧迫感さえ覚える。

 しばらくすると、夫は時計の横に陳列台を置いて、趣味で集めているフィギュアやミニカーを並べだした。流石に私は激しく抗議した。でも夫は暖簾のれんに腕押しで、のらりくらりと逃れる。


 だけど。
 この頃、私は余り気にならなくなってきた。


 目下の二人の争点は、夏のボーナスの使い道である。
 私の希望は海外旅行で、夫は自動車購入の頭金にしたいようだ。
 何かと維持費が掛かる車なんか必要ない。現に今までだって車は無くともバスと電車で事足りた。旅行先でもタクシーやレンタカーで十分だというのが私の主張だ。


 トイレを使うと、私の目の前で振り子が左右に揺れる。
 カチ、カチ、カチ……。

「お前は、眠くなる。段々、眠くなる……」

 どこからか微かに流れる夫の声を私はぼんやり聞いている。


「お前は、車が欲しくなる。段々、車が欲しくなる……」


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来戸 廉
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