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【連載小説】10 days (10)

6.2

 その日の夜。
「こんばんは」
 おとないを告げる声がした。

「師匠、どうした? こんなに遅く」
 健一は師匠から少し離れて立つ影を認めた。ちらっと目をやって、師匠に戻す。
「佑斗君、いますか?」
「ああ、いるよ。おーい、佑斗」
 健一は玄関に一歩入ってから二階に向かって声を張り上げた。
「何?」
「師匠が来てるぞ」
「今、行くよ」
 佑斗は階段を駆け下りてきた。佑斗は師匠を見てぱっと顔を輝かせたが、その背にいる圭太の姿を見て表情をこわばらせた。多分圭太とはもう一度会うことになるだろうと思っていた。でもまさかそれが今夜とは思いもよらなかった。

 圭太は健一にちょこんと会釈して、
「ちょっと、いいか」
 と佑斗を外に誘った。
「うん。ケンさん、ちょっと出てくる」
 健一は黙って小さくうなづいた。母親みたいにあれこれ聞いてこないのがいい。圭太は玄関脇の生け垣の陰まで行って振り返った。
「昼間は、悪かった」
「うん。もういいよ」
「いや、よくない。俺を殴れ。殴ってくれ」
「そんなこと、できないよ」
 助けをおうとしたが、夏美はそっぽを向いたままだ。
「それじゃ俺の気が済まない。お前はいい奴だ。俺はお前と友達になりたい。だから俺を殴ってくれ」
「意味が分からないよ」
「頼むよ」

 様子をうかがっていた健一が、
「佑斗、圭太の言う通りにしてやれ」
 と言う。
「そんなあーっ」
 格闘ゲームでは対戦相手と殴ったり蹴ったりするが、それはその動作に対応した操作ボタンを押すだけで、当たり前だが実際殴ったり蹴ったりする訳ではない。昼間のことを思い出そうとするが、圭太の動きは速すぎて覚えていない。
 ええい、ままよ。佑斗は見様見真似で右手を握りしめて、圭太の顔を目がけて腕を振った。拳が圭太に当たる寸前に、佑斗は目を閉じた。
 ごつっ。
 鈍い音がして二人は同時に悲鳴を上げた。

「いてーっ」
 圭太は顔をゆがめて左手で頬から鼻の辺りを押さえた。佑斗は佑斗で右手首を左手でさすりながら飛び跳ねる。
「お前のパンチ、鼻にまで当たったぞ」
「仕方ないじゃないか。どうやればいいのか分からないのに、殴れって言うから」
 圭太は顔を手でおおったまま、右手を差し出した。佑斗は左手で右手首を包みながら、がっしり掴んだ。
「殴られたのも初めてだけど、どちらもいい気持ちのものじゃない。どちらも痛いよ。もうこれっきりにしようよ」

「圭太。もう、いいの?」
 夏美が頃合いを見て尋ねた。圭太がうなづく。
「でもね、私、こういうの、好きじゃないからね」
「こういうのって?」
 と佑斗が聞くと、
「暴力的なことよ。圭太に、どうしてもって頼まれたから、付いてきたけど、私、こういうの嫌いよ」
 夏美が即座に答える。
「ごめん」
「佑斗君は、圭太のことをかばってくれた。それは嬉しい。だけど嘘はいてほしくないの」
「ごめん」
「だって、圭太も佑斗君も、私の大事な友人だから」
「ありがとう」
 夏美の言葉は突っ慳貪つっけんどんで素っ気なかったが、佑斗は何だかとても嬉しかった。


 二人を見送りながら健一が言う。
「人と人との付き合いは、対等でなくちゃあいかん。圭太はお前に負い目があったんだな。だからお前に自分を殴らせた。いいやり方とは言えんが、それで彼の中ではお前と対等になったということだ」
「言ってることは分かるよ。だけど僕は、こんなこと、もうこりごりだよ。何だか、友達になるって面倒だね」
「それはそうさ。人と付き合うのは、面倒だからいいんだ。簡単だったら、簡単に別れる。面倒だから、続くんだ。続けられるんだ。お前は、この先色々面倒な手続きを経て、圭太と本当の友達になるんだ。」
「源さんともそう?」
「あいつとはもう十年以上の付き合いになる。初対面は最悪だったけどな。まあ昨日まで名前も顔を知らなかったヤツだぞ。一回会って意気投合したって、相手のことはほとんど知らないだろう。時にぶつかり合いながら、相手の良い所も悪い所も全部を知って、それらを全部受け入れる。それが親友ってやつだ」

「SNSとやらで、やり取りしてるヤツらとは、そんな面倒な手続きを経ているか?」
 佑斗は、先日プールの約束を反故ほごにした時のことを思い浮かべた。SNSで行けなくなったと連絡しただけだ。ごめんの一言も添えなかった。
「ううん。でもやってないと、仲間はずれにされちゃうんだ。だから仕方なくやってるだけだよ。でもこのところ全然やっていないから、とっくに仲間はずれにされているかも知れないけど……」
「お前ぐらいの年頃だと、そんな小さな社会でも、それなりに大変なんだろう。それは分かる。だが結局、それくらいの関係だってことだ。圭太や師匠みたいな友達は大切にしろ。さあ、さっさと風呂に入って、寝ろ」
 健一は佑斗を残して、家に入った。
「うん」

 佑斗は二人の影が小さくなって街灯の闇に消え後もたたずんでいた。


6.3

 夜の十一時過ぎ。
 さくらは店を閉めて、風呂上がりに一人で飲んでいた。
 ――今日はケンさんも源さんも来なかったわね。
 源三でもさくらの話し相手になっていれば、さくらがそこまで思い詰めることはなかったかも知れない。
 ベッドに入ったものの、気持ちがささくれて眠れそうにない。さくらはアルコールに強い体質ではないので、普段は余り飲むことはない。寝酒のつもりだったが、どこからか度を越してしまったらしい。

 さくらの中で幾つかの要因が重なり合った結果の衝動だった。
 気がついた時、さくらは健一の家の前にいた。
「お客さん、着きましたよ」
 運転手に促されて、さくらはタクシーを降りた。

 ガタン。階上で何かが落ちたような大きな音がして、健一は目を覚ました。ぎゃーっ。悲鳴めいた声が続いた。健一は飛び起きると、階段を駆け上がった。
「どうしたんだ?」
 健一は佑斗の寝室に跳び込んだ。
「誰かが……ベッドの側にいて……」
 部屋の隅に影がうずくまっているのが見えた。
「誰だ!」
 健一が誰何すいかする。少し落着きを取り戻した佑斗がベッド脇のスタンドを点けた。
「あれっ、ママじゃないか。どうしたんだ?」
「ケンさん……私、来ちゃった……」
 悪戯いたずらを見つかった子供みたいに、さくらはけらけら笑う。かなり酩酊めいていしているようだ。呂律ろれつが回っていない。

「おい、佑斗、水を持ってきてくれ」
「はいっ」
「ケンさん、……いい男だね……」
「ほら、ママ。水だよ」
 さくらのまぶたは落ち掛けて、コップを受け取る力もないようだ。健一は、さくらの肩を揺すって起こそうとするが、一向に効果がない。
「ほら、ママ、少し水を飲んで」
 健一がさくらの肩を横抱きにして、口元にコップを運ぶ。
「ゆっくりだよ、ゆっくり」
 さくらは覚束おぼつかない手つきで受け取ると、くいっと一気に傾けた。途端に激しくき込む。
「ほら、言わんこっちゃない」
「佑斗、タオル」
「はい」
 佑斗が走る。健一はコップを取り上げ、さくらの背中を軽く叩いた。
「大丈夫?」

 さくらは咳き込んで少し目が覚めたようだ。
「何で、ケンさん、ここにいるのよ!」
 突然さくらが大声を出した。怒り上戸のスイッチが入ったようだ。
「全く、忙しい人だね」
「私の気持ち、分かる!?」
「ああ、分かってるよ」
 ケンさんはさくらの背をでる。
「ユウくん、可愛い」
 柔らかな声。佑斗はころころ変わるさくらに唖然あぜんとしている。さくらは手を伸ばして佑斗をハグしようとするが、その手は宙を彷徨さまよい、そのまま前につんのめった。

「酔っ払っちゃった。ごめんね。私、恥ずかしい」
 消え入りそうな声が泣き声に変わった。
「おいおい、今度は泣き上戸かよ。悪い酒だな」
「私、どうしよう。もう会わせる顔がない」
「大丈夫だよ。ママの顔を見ながら飲む酒が、一番さ」
「そんな優しいこと、言わないで」
 号泣に変わった。佑斗はどうすることも出来ず立ち尽くすだけだ。
「分かった。分かったから、もう泣かないでくれよ」
 健一がさくらを包むように抱きしめる。

「ケンさん、ホント、ごめんね。ユウくんも、ごめんね。ホント、ごめんね」
 謝り上戸に変わった。
「いいよ」
「ごめんね」
「私、帰る」
 さくらは急に立ち上がろうとしたが、その途端にふらついて倒れそうになる。慌ててケンさんが支える。

「もう遅いし、今夜は家に泊まっていきなよ。明日の朝、こいつに送らせるよ」
「えっ、僕が?」
「他に適任者がいないだろう。こんな狭い街だ。朝早くに、俺とママが一緒にいる所を見られたら、まずいだろう。痛くもない腹を探られるし、変な噂でも立ったら、ママの商売にも差し支える。だからお前がいいんだ。お前だったら、どんな言い訳でも立つ」
「例えば?」
「そうだな。夜、お前が突然熱を出して、もう店が閉まっていたから、ママに頼んで氷を分けてもらったとか」
「熱を出した本人が、次の朝送るってのは、無理があるんじゃない?」
「そうかな」

「そうかなって、もう。他には?」
「他にか、そうだな」
「もうないの?」
「あるさ。咄嗟とっさに思いつかないだけだ。もう少し時間を掛けたら、いいのが出る」
「じゃあ、逆でいいよ」
「逆?」
「ケンさんが夜になって熱を出したことにするんだよ。昼間、ちょっと頑張りすぎたんだね。それで僕が困って、ママに電話して氷を届けてもらった。どう?」
「俺はそんなひ弱じゃない!」
「今は見栄とか意地は張らないで。これが最善策だと思うよ」
「俺が病人か。ちょっと気に入らんが、まあいい。わかった。そうしよう。ママ、それでいいか?」
 二人が目を向けると、さくらは安らかな寝息を立てていた。健一がいくら揺すっても全く反応がない。

「仕方ない。ママはここに寝かせる。お前は居間のソファーで寝ろ」
 健一は涙がにじんだ顔を濡れたタオルでそっと拭いた。無防備な寝顔があどけない。愛おしさで胸が一杯になった。壊れそうなくらい、ぐっと抱きしめたい。健一は、そんな気持ちをかろうじてこらえた。佑斗がいてくれたことに感謝だ。

「驚いただろう?」
「少しね。でも偶に母さんも酔って帰ってくること、あるし。そんな時は、いきなり誰か知らない人をののしったり、突然泣き出したりするから。何とかなだめて、ベッドまで連れて行って寝かせて、次の日の朝梅干し入りのお粥を作るのが、僕の役目なんだ」
 佑斗は健一に目をやった。
「ママ、ケンさんのことが好きなんだね」
「話はそう単純なことじゃない。だが、お前がいてくれてよかったよ」
「単純じゃ無いって、どういうこと? どうして僕がいてよかったの?」
「そんなに矢継ぎ早に色々聞くな。答えられることと、答えられないことがあるんだ」
「答えられないことって、知らないってこと?」
「それもあるが、言いたくないこともある。それにある年齢になって、人生経験を積まないと分からないこともな。色々と難しいんだ。大人の世界はそれほど単純じゃない。ちょっと後を頼めるか?」
 健一が腰を上げる。佑斗が慌てて尋ねる。
「どこへ行くの?」
「外を見てくる。ご苦労だったな。早く寝ろよ」

 ふうーっ。健一は大きなため息を吐いた。
 潮風が健一の高ぶった気持ちを心地よくしずめて行った。

<続く>


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来戸 廉
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