【連載】ラジオと散歩と味噌汁と(3/15)
3.結婚
君は仕事の帰り、僕はアルバイトの上がりに落ち合った。僕のアパートの近くの大衆食堂で夕食を共にしたこともある。ある時は喫茶店で、書き上がったばかりの作品を読んでもらい、感想や意見を聞いたりもした。
我々は順調に愛を育んでいった。君を伴侶としたいと真剣に考えていた頃だった。君も同じ気持ちだと信じていた。
半年が経った頃。
その日も会う約束をしていたが、時間直前になって君から断りの連絡が入った。
「仕事が忙しくなったから、しばらく会えない」
と告げた君の声は重かった。
一週間後、君から電話が掛かってきた。
私はいそいそと待ち合わせの喫茶店へ向かった。君はすでに奥の方の薄暗い席で待っていた。私を認めると君は小さく手を挙げた。それから私が席に着くまでの間、君はずっと顔を伏せたままだった。
そして君は顔を上げるや否や、唐突に別れを切り出した。そう唐突に。今まで見たことのないほど暗く沈んだ顔で。
「どうして?」
私にとって将に青天の霹靂だった。君は黙ったまま一筋の涙を流した。
「ごめんなさい」
君はただただ謝るだけだった。理由に心当たりがなかった。呆然とする私を置いて、君はそそくさと席を立ち、一度も振り返ることなく店を出て行った。
私は逡巡していたが、気を取り直して君の後を追った。五分ほど遅れただけだったが、もう君の姿はなかった。
小さな喧嘩ならこれまでにも何度かしたが、その度に直ぐに仲直りした。でも突然別れを言い出されるなんて。僕がそこまで君を怒らせたり、愛想を尽かされるようなことをしたとは思えない。
携帯電話に何度も掛けたが、空しく呼び出し音だけが流れるばかりだった。
どこで気持ちのすれ違いがあったのだろうか。私は君も同じ気持ちでいてくれると思っていた。
付き合おうと言い出したのは君だったし、終わらせたのも君だった。
また一人だけの生活に戻った。もとの木阿弥になっただけのことだ。
だが一方で、一度でも温もりを知った心は元には戻れない。何としても縒りを戻したいと願った。
私は大きく揺れていた。
何も手に付かなかった。終日部屋に籠もる日が続いた。
二週間ほど過ぎたある日の夕方のことだった。君は突然私のアパートを訪ねてきた。先日のことなど何もなかったような、拍子抜けするくらい明るい笑顔だった。
開口一番に、
「この間はごめんね。あのことは忘れて」
と言った。呆気にとられている私に、
「一緒に暮らさない?」
と君はいきなり切り出した。あまりの急展開にまごついたが、元より私に断る気持ちはない。
思い返せば、その頃から、君は何でも一人で決め、それを私は否応なく認めるという形が、二人の関係において一番しっくりいったものだ。
「僕は大歓迎だけど、ご両親は承知しているの?」
「親のことはいいの。大げんかして出てきちゃったから」
その後、君は私の無精髭とぼさぼさの髪を嘆きながら、
「ねえ、ちゃんと食べてる? 風呂には入ってるの?」
と笑った。
「自堕落な生活はだめよ。私がいないとダメねえ」
その原因の全ては君にあるのに、一向に気にしている様子はない。心変わりの原因が分からない不安があったが、一方で今それを問い詰めると別れ話がぶり返すという恐れも感じた。少し時間をおいた方がいい。私の優柔不断な心がそう逃げた。
ただ今回のことは、半年も付き合っていながら煮え切らない態度だった私への強力なカンフル剤になった。
もう二度と君を離したくない。
「結婚しないか」
途端に君の笑顔が崩れる。
「もし君が戻ってきてくれたら、私はプロポーズしようと決めていた」
君は目に一杯涙を溜めて頷いた。
「何があっても、私のこと愛してくれる? 愛し続けてくれる?」
「もちろんだよ。何があっても君のことを愛するし、愛し続けるよ」
その日から二人の生活が始まった。
次の日、二人で市役所に行き入籍した。結婚式は挙げなかった。後日、君のご両親とは食事をして、その場で報告した。
「何が一番気に入ったの?」
一ヶ月ほど経った頃、君は私に尋ねたことがあった。
「えっ、何?」
「私のどこが一番好きになったのかってこと」
「どうしたの? 急に」
「まだ聞いてなかったもの」
別に内緒にしていたわけじゃない。聞かれなかったから、取り立てて言わなかっただけだ。
「君が、味噌汁を作るのが好きだと言ったからさ」
「えっ、それだけ?」
「他にもいっぱいあるけど、一番はそうだよ」
君は別の答えを期待していたようだ。でも結婚なんてちょっとした切っ掛けで思い切れるものだ。
今でもはっきり覚えている。どういう展開でそうなったかは忘れたが、思いがけずそんな話題になった。しかも味噌まで自分でも造ると、君は言った。
「まあ私んち、両親が共働きだったから、中学生の頃から私がいつも夕食の用意していたしね」
君は当たり前のように言うが、私にとって衝撃だった。だから私はずっと君に求婚するタイミングを探していたんだ。その矢先、不本意だったけど、君が切っ掛けを与えてくれたんだ。
「僕は毎朝、まな板を叩く音で目覚めて、身支度して食卓に着くと、さっと香り立つ味噌汁が出される。そして揃って朝食を摂る。それが僕の憧れだったんだよ」
「馬っ鹿じゃないの。そんなの、大昔のテレビドラマの中だけよ」
君は少し口元を緩ませながらも冷たく言い放ったものだ。そしてその直後、私の家庭事情を思い出したのか、ごめんと謝った。
私は母子家庭で育った。
母は連日朝早くから夜遅くまで働きづめで、私はほとんど朝晩はいつも一人で、母が朝作り置きしてくれた食事を摂っていた。火事を恐れた母は私が火を使うのを禁じていたので、冷えたままのご飯を機械的に口に運んだ。夏はまだいいのだが、冬は心の芯まで冷たさが染みた。
だから私には、茶碗から立ち上る味噌汁の湯気が家族団欒の象徴みたいに思えたものだ。
その頃は取り分けて寂しいと感じたことはなかったが、今こうして口に上るところを見ると、やはり辛かったのだろう。
その母も私が大学を卒業して間もなく、自分の役目を終えたとでもいうように、この世を去った。
「別に気にしなくていいよ」
「ううん、本当にごめんなさい」
君の顔に暗い陰が差した。そんな顔を見るのは二度目だった。気にはなったが深く考えることはしなかった。
<続く……>