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【連載小説】10 days (21/21)
12.2
今年に入ってから健一の体調が優れないのは、母から聞いていた。
中学一年の夏、佑斗は初めて祖父の健一に会った。それから高校二年まで、毎年夏休みは健一の元で過ごした。
だが高校三年生になると受験勉強に追われ、大学に入ると休みはアルバイトや友人との遊びに明け暮れて、すっかり足が遠のいてしまっていた。
就職して早二年。今は家を出て、気ままな一人暮らしを満喫していた。
■
二月に、健一が検査入院で東京に来ると母から連絡が入った。お見舞いがてら会いに行こうかと思わないでもなかったが、でもそういうのは健一が嫌がるだろうと勝手に決めつけていた。
仕事が忙しいこともあったが、それより健一の話はとかく説教めいて、少し疎ましく感じる気持ちが底辺にあったのも事実だった。
それで、ついつい先延ばしになり、今度のお盆休みにでもちょろっと顔を出してみようと考えていた。
■
四月になって、夜中に泰子から電話があった。
「佑斗、何時になったら、おじいちゃんのお見舞いに来るの?」
「そのうち顔出すよ」
「早くしないと、そのうちはないかも知れないわよ」
「えっ、どういう意味?」
「おじいちゃん、長くないってことよ」
「そんなに悪いの?」
「誰にも言うなって口止めされているけど、おじいちゃん、末期のガンなのよ。もう手の施しようがないって……」
「でも三月だっけ、熱浦の家に帰ったって、言ってたじゃない」
「あれは、体が言うことを利くうちに、お世話になった人達に別れを告げに行ったのよ。その後ずっと、家で療養しているわよ」
その後、緩和ケアのため入院したと連絡が来た。佑斗の脳裏に、ホスピスで見た亡き父の姿がありありと浮かぶ。
佑斗は「わかった」と答えたものの、健一が死ぬなんて信じたくもなかったし、そんなことは考えたくもなかった。
■
六月、初め。
佑斗の元に健一の容態が急変したというメールが泰子から届いた。
その日は昼から会議や打合せが立て続き、七時近くまで私用のスマホはマナーモードにしていた。メールの着信に気づいた時は、送信されてから既に三時間以上経っていた。電話の着信履歴は母からのもので画面一面占められていた。
しまった。気持ちが急く。
佑斗は直ぐさまタクシーを飛ばした。
佑斗は病室に走る。部屋に飛び込むと、泰子がベッドの脇に付き添っていた。泰子は、
「佑斗が来てくれたわよ」
と健一に声を掛けた。佑斗は健一の姿を直視できない。俯いたまま、泰子と入れ替わりに椅子に座って、健一の手を握りしめた。
あの頃はごつくて厚い手のひらだった。両手でやっと指が回るほどの大きな掌だった。それが今はすっかり細くなって、片手で軽く握っても指が余る。あれから十年以上経って、佑斗も大きくなったこともあるが、やはり病魔が健一の身を削り取ったからだろう。思わず涙が出そうになった。
「おじいちゃん」
佑斗が声を掛けると、健一は布団から震える右手を出して、指を一本立てた。はっとして顔を上げると、酸素マスクが小刻みに動くのが見えた。マスクの内部が曇っただけだったが、佑斗には何と言ったのか分かった。
「ルールその一、だね」
佑斗が現実から目を逸らしていることを、健一は咎めている。佑斗は健一を見つめる。頬の肉が落ちて顔が随分細くなった。
黄色く濁った目が佑斗を捉えた。健一の目に光が戻る。
優しい目だ。健一と過ごした時間が頭の中を駆け巡る。
――もっと早く、もっと元気なうちに会いに来ていれば……。仕事のこと、友達のこと、一人暮らしを始めたことなど、他にも山ほど、おじいちゃんに話したいことがあったのに……。
「おじいちゃん、ごめんね、遅くなって、ごめんね」
佑斗の顔が歪む。間を置かず酸素マスクが左右に揺れた。それと同時に健一は両手を開きパーの形を作った。
「ルールその十。人前で涙を見せるな、でしょう。僕、忘れてないよ……」
……でも、守れそうもないよ。
「僕、嬉しかったんだよ。短い時間だったけど、おじいちゃんと一緒に暮らせて、楽しかったよ。勿論、初めからそうだった訳じゃないけど。おじいちゃんの話、とても面白かった。色々教えてもらった。おじいちゃんの友達も優しかった。僕、本当に嬉しかったんだ」
涙で声が詰まる前に一気に吐き出した。
「ずっと、そのことを伝えようと思っていたんだけど、なかなかできなくて……。ごめん……ね」
歪む視界の中で、酸素マスクがこっくりと小さく動いて、健一はゆっくり目を閉じた。
十一時頃、健一が昏睡状態に陥った。医師が「会わせたい方がいらっしゃれば、連絡してください」と告げた。
泰子は 直ぐさま美鈴に電話を入れた。美鈴は夜遅い時間だったにも関わらず、三十分もしないうちに病室に駆けつけた。
「お父さん、お母さんが来てくれたわよ。分かる?」
泰子は健一に静かに呼び掛ける。美鈴はすっと近寄り、そっと健一の手を取り、更にもう片方の手を重ねた。
「健一さん……長い間、お疲れ様……」
美鈴の言葉を待っていたかのように、健一に取り付けられていた計器がピーと鳴った。
医師がペンライトで瞳孔拡大を確認して、「午後11時28分、ご臨終です」と告げた。
「でも、お父さん、よかったんじゃない。お母さんに見送ってもらえて。きっと喜んでいるわよ」
泰子は目元を拭いた。
美鈴は天井を仰いでゆっくり唇を動かした。五回。音にはならなかった。
「佑斗、まだ泣いちゃあ、だめだよ。肉体は死んでも、あの人の魂は、もうしばらくこの辺りを彷徨ってるんだからね。あの人、泣いてたら怒るわよ」
看護師に外で待つように言われて、三人は廊下に出た。
「じゃあ、私は帰るからね。後は泰子、よろしくね」
「えっ?」
佑斗は思わず声を上げた。てっきり美鈴が葬儀までいてくれると思っていたからだ。
「えって、私は縁が切れた人間だから、当然でしょう」
「じゃあ、どうして来たの?」
「あの人との約束だったからね」
美鈴は病院を後にした。
――私を看取ってもらおうと思って、提案したんだけどね。あなたが先に逝くなんてね。
さようなら……。
美鈴は立ち止まって暗い空を見上げた。
12.3
「おーい、佑斗。ぼーっとしてるんじゃないぞ」
源三のだみ声で、佑斗は現実に引き戻された。
「おい。お前も飲め」
源三はいつの間にかビールを飲んでいる。佑斗の前にも置いてあった。ママが用意してくれたようだ。
佑斗はぐっと飲み干して、
「じゃあ、僕はそろそろ……」
暇を告げようとした時だった。
『サクラ』のドアが勢いよく開いて、圭太と夏美がひょっこり顔を出した。
「おう。久し……」
圭太は上げかけた手を途中で止めた。圭太は俄に厳かな顔を作り頭を下げながら、「この度は……」とその後はごにょごにょ言葉を濁しながら、お悔やみの言葉を口にした。佑斗もかしこまって礼を述べた。
「この頃、ケンさんとは会えてなかったの。入院したって聞いて、見舞いに行かなくちゃねって、話していたところだったの。それなのに……」
夏美は声を詰まらせる。圭太が肩をそっと抱いた。
あの頃は針金みたいで真っ黒だった夏美だったが、すっかり女性らしくなっている。色も白くなって少し肉も付いたようだ。
佑斗の視線に気づいた夏美が、
「じろじろ見ないで。気にしているんだから」
と睨む。つい先程までのしんみりとした感じはどこへ行ったやら。
「それにしても、俺がここにいるって、よく分かったな?」
「絶対ここだって、夏美が……」
相変わらず主導権は夏美にあるようだ。
今、夏美は地元の銀行に勤めていると言う。
「ユウ君も口座作ってよ」
「これを機に、こっちに戻ってきたらどうだ」
「戻って来いって、俺はここの出身じゃないよ」
「いいじゃない。故郷みたいなものでしょう」
「そうだよ」
圭太は真っ黒に日焼けしていて、すっかり漁師の顔になっていた。
「こんな時に何なんだけど、俺達、結婚するんだ」
えっ。思わず佑斗は夏美を見た。夏美は恥ずかしそうに俯いて、小さく頷いた。
「そうか、おめでとう。式はいつだ。俺もスケジュール開けとかなくちゃな。あっ、当然呼んでくれるんだろう?」
「もちろんだよ」「もちろんよ」
異口同音に返事が返って来た。
「お前、まだしばらくは、いるんだろう?」
「ああ」
「じゃあ、後で連絡するわぁ」
「ほら、おじいちゃん、帰るよ」
圭太は、ビールに執着している源三の腕を取って立ち上がらせた。
「おじいちゃん、今夜はうちでご飯食べるんだよ。忘れてないよね?」
「馬鹿野郎。人を年寄り扱いしおって」
「ママ、どうもお邪魔しました。佑斗、またな」
源三は渋々といった風情で、圭太に背中を押されながら帰る。夏美は苦笑しながら跡を追った。
ママは三人を見送りながら、
「源さんには、これまでの分まで、一杯幸せが訪れるといいわね」と願った。
「そうですねよ」
「ユウくん、いい人はいないの?」
「中々縁がなくて……」
「そう……」
しばし沈黙が流れた。
「ねえ、ユウくん。今日はもう店閉めちゃうから、夕飯食べて行かない? 付き合ってよ」
「はい。僕で避ければ」
「もう少し飲む?」
ママは缶ビールを二本取り出した。ママは「献杯」としめやかに言って、ぐびっと一口飲んだ。
「私ね、ケンさんからプロポーズされたことがあるのよ」
えっ。佑斗にとって衝撃的だった。
「いつですか?」
「十年以上前よ。ユウくんが花火のこと、教えに来てくれたじゃない。あの後、しばらくしてからよ」
「へぇーっ。そうだったんだ」
「だけど断っちゃった」
「えっ、どうして?」
「そうよね。何でかしら。自分でもよく分からないの。後悔って、時間と共に段々強くなっていくのね。辛かったわ」
「それでね。今度は私からプロポーズしたの」
佑斗は展開が急過ぎてに話に付いていけない。
「いつ?」
「ついこの間よ。ケンさんが東京から一旦戻って来た時かな。ケンさん、驚いたみたいだけど、ゆっくり笑顔になって、ありがとうって言ってくれた。でもその時は遅過ぎたのよね……」
「……」
「本当、私、男運が悪いの……。好きになった二人が、二人とも先に逝っちゃった……」
語尾が震える。ママの頬を寂しさが伝っていた。
「さくらさん、今夜は飲みましょう。僕、とことん付き合いますよ」
夜は長い。だが……、
愛しんだ人の思い出を語るには余りに短い。
12.4
僕は人間として中途半端な時期にケンさんと出会った。
最初はたったの十日間だけだったが、一緒に暮らした。その後も夏休みの度にケンさんを訪ねた。ケンさんは僕が顔を見せると面倒くさそうな態度を取ったが、来るなとは言わなかった。
ケンさんから色んな話を聞いた。色んなことを教わった。色んな所に連れて行かれ、色んな人々に会った。
この期間が、その後の僕の人格形成において大きく作用したことは間違いない。
もう時効だろうから言うが、高二の夏、僕に無理矢理酒を飲ませたのはケンさんだ。しかし僕はアルコールに滅法強いらしくて、先に潰れたのはケンさんだった。僕が家まで背負って帰ったことは、多分ケンさんは知らない。ケンさんの名誉のためにと、ママと源さんと僕、三人の秘密にしておいた。だが、どうもケンさんは知っていた節がある。多分源さんが酔った勢いで口を滑らせたのだろう。
ケンさん、僕、もっともっとケンさんの話を聞かせてほしかったよ。鬱陶しがらずに、足繁く訪ねればよかったと悔んでいる。『しなかった後悔より、した後悔の方がいい』ってケンさんが教えてくれたけど、本当だね。
だけどケンさんは、きっとこう言うだろう。
「もう俺の話は終わりだ。いつまでも俺に頼るな。この続きは自分で紡げ」って。
僕はケンさんからこの家を相続した。それを機に、僕は熱浦市に引っ越しを決めた。
僕の仕事はアプリケーションの開発で、パソコンとインターネット環境があれば、どこにいても作業ができる。会社としてもコロナ以降、リモートワークを推奨していて、会議はリモートで行い、月に数回出勤すればいいことになっている。
僕は『サクラ』の常連になった。源さんの口利きで仲間も増えた。
ただ源さんには閉口している。酔いが回ってくると僕のことを「ケン」と呼ぶのだ。初めのうちこそ一々訂正していたが、この頃はもう諦めた。酔っ払いは同じ話を繰り返して全く切りがない。
老化現象よ。ママは疾うに匙を投げているようだ。
圭太と夏美は結婚して、来年には家族がもう一人増えるそうだ。
二人は、僕に女友達を紹介しようと画策しているようだ。幸せのお裾分けだと言う。全くお節介なことだ。
これからも。
僕は、ケンさんが愛したこの街を舞台に、物語を綴っていくだろう。
それにはキーボードを叩くより、紙と鉛筆の方が似合うような気がする。
物語は、まだ始まったばかりだ。
指針はある。
だがこの先、どんな人物が登場するのか、どういう展開になっていくのか……。
未だ、分からない。
<終わり>
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