【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】リスト (9)
9.
<平成二十六年十一月十一日>
亜希子は夜遅くになって帰宅した。
「お帰り。ご苦労様」
大輔が労う。
「疲れたーっ。いやーっ、流石に鶴岡は遠かった。往復十二時間、座りっぱなしは堪えたわ」
夕飯は駅弁で済ませたからと、亜希子は着替えを持ってそのまま浴室に消えた。
風呂から出て居間に顔を出すと、亜由美と大輔が今日の報告を待っていた。
「亜由美、もう遅いから寝なさい」
「奈津美さんのこと、聞き出したのは私よ。聞く権利があるわ」
亜由美は譲らない。大輔は、
「権利があるとかないとかじゃなく、これは大事なことだから、亜由美も聞いておきなさい」
と同席させた。
「さすがお父さん、話が分かる」
こら。亜由美を目でたしなめながら、亜希子は鶴岡でのことを順を追って話し出した。
亜希子が話し終えると、大輔は大きなため息を吐いた。
「辛い話だな。お義父さんはその人のこと何も覚えていないのに今を生きて、その人はお義父さんを忘れられずに今でも過去に縛られている。二人が共に歩く未来はもうないんだろうな」
「どんな人だった?」
「そうね、素敵な女性だったわ」
「もしかしたら、おじいちゃんが交通事故に遭わなければ、その人がお嫁さんだったかも知れないわけでしょう? そしたら、お母さんもいないし、私もいない。そしたら誰も思い悩む人はいなかったってこと? 苦しむ人はいなかったってこと? 何だか難しいね」
「亜由美の言う通りだね。人は好むと好まざるとに関わらず、人生で幾つもの分岐点に立つ。その都度どれかを選択して、その結果として今がある。でも事故、災害、病気など、人が選べない選択肢もある。お祖父ちゃんの事故のようにね」
「そういうものって、自分の力や意思だけではどうしようもないじゃない」
「そうだね。昔から、そういう時、人間は人知を超えた力の存在を信じ、その力により生かされていると考えたんだろうね。その『力』のことを、『神』とか『運命』とか、そんな言葉で表したんだろうね。人は自分で決めているつもりでも、実際は予め神様が決めた道を歩いているだけだ、みたいにさ。お祖父ちゃんが交通事故に遭ったことも。その後お祖母ちゃんと結婚したことも。今回、俺も改めてそんなことを考えさせられたよ」
「でも、それって運命って言葉で、自分の身の不幸を諦めている気がするんだけど」
「そうだな。でもどこかで諦めないと、ずっとそれに囚われてしまって、心が壊れたりすることもあるだろうしな」
「ほら、ほら。小難しい話はそのくらいにして。問題は父の横領の件よ」
亜由美はまだ小首を傾げている。
「事故に遭う前に勤めていた会社で、横領したと疑われていたらしいの」
「横領って?」
「簡単に言えば、会社の金を盗んむことだよ。でもお義父さん、記憶が無いから、自分で身の潔白を証明するのは無理だな」
「おじいちゃんは、犯罪者ってこと? 警察に逮捕されちゃうの?」
「会社は警察に被害を届けていないらしいから、法律上は犯罪者にはならないわ。それに時効も成立しているし。でも、おじいちゃん、かなりショックだったみたい。帰りの電車の中、ずっと塞ぎ込んでいたわ」
「どうするって言ってた?」
「明日にでも、当時の上司だった井上さんって方に電話して、確かめたいって言ってた」
「それしかないな」
「私、明日日勤だから、休ませてもらうわ。もう年ね、くたくたよ」
■
次の日。
精一は一ノ瀬製作所に電話を入れた。井上勝彦は疾うに退職していた。
「昔お世話になったので、偶々近くまで来たから挨拶がしたいのだが……」
と言うと、拍子抜けがするくらいあっさりと連絡先を教えてくれた。電話一本で簡単に個人情報を教えるなんて、管理は大丈夫かと心配になる。
それはさておき。
精一は直ぐに井上宅に電話を入れた。『田原隆司』と告げると、しばらく沈黙があって、
「おう、お前、あの田原か?! 田原隆司か!」
と大声が返ってきた。精一は思わず受話器を耳から遠ざける。
「お前、生きていたのか。馬鹿野郎、黙っていなくなりやがって。電話一本ぐらいしろ、てんだ。馬鹿野郎。心配していたんだぞ」
矢継ぎ早に井上は荒っぽい挨拶を浴びた。一区切りしたところで、精一はこれまでの経緯を説明しようとした。
「待て。詳しいことは、会ってからだ。今日、時間はあるんだろう。今どこだ? ん? じゃあ『一ノ瀬』って店に六時で、いいな」
井上は一方的に店と時間を決めた。
井上の言葉は乱暴だが口調には優しさが滲む。井上と精一の関係は三十年以上前に止まったままなのだ。
約束の時間の十分前に『一ノ瀬』という店に着いた。小料理屋というのだろう。
精一の毎日は、ほとんど自宅と会社との往復だった。仕事終わりにどこかで飲んで帰ることもない。家での晩酌が唯一の楽しみだった。偶には美枝子とこういう店で酒を酌み交わせばよかったと心が痛んだ。
訪を告げると、奥の個室に通された。井上は既に来て待っていた。おうっとばかりに手を上げる。井上の顔は精一の記憶にない。
「座敷部屋の方が落ち着いた感じなんだが、俺が膝が悪いから、椅子の部屋にしてもらったんだが、いいかな?」
「はい、私はどちらでも」
「取り敢えず、ビールでいいかな」
「はい」
「女将、生を二つ」
「お料理はどう致しましょうか?」
「うん、適当に見繕って」
井上が頷くと、女将は部屋を出て行った。井上は精一の顔を黙って凝視した。精一も視線を逸らさなかった。井上は、何度も頷いて、
「確かに、田原隆史だ」
ビールが運ばれてきた。
「いいお店ですね。井上さんの馴染みなんですか?」
「とんでもない。こういう機会でもないと、かみさんが許してくれなくてな。お前のお陰だよ」
偶の贅沢だと井上は笑った。
「じゃあ再会に乾杯」。
井上はジョッキを傾けながら、
「お前、今までどうしていたんだ」
精一は事故から現在に到るまで、新たに得た情報も含めて、順を追いながら話した。時折相槌を打ちながら聞いている。
随分長い時間話していたような気がしたが、まだ話し始めてから二十分ほどしか経っていない。
「そうか、お前も大変だったんだな」
「大変だと思ったことはないです。妻がずっと支えてくれてましたから。それより横領の件ですが……」
「ああ、あれはお前じゃない。社長の勇み足だ。経理を担当していた安田って奴が犯人だった」
「そうでしたか」
精一は安堵の胸をなで下ろした。
「幸い発見が早くて被害額も少なかったから、依願退職させて退職金でちゃらにした。体裁が悪いからな、警察には届けなかった。会社の信用にも関わるしな。それもお前が行方不明になったお陰だ」
精一が困った顔をすると、
「そうか。お前も好きで事故に遭ったわけじゃないもんな」
と言いながら井上が大笑いした。精一もつられて笑った。
「手を見せろ」
精一は言われるままに差し出した。
「いい手になったな。お前、今も旋盤工やっているのか?」
「はい。三年前に退職して、今は先輩と二人で機械工の派遣会社みたいなことをやってます」
「そうか」
「手を見せろって言われたのは、これで二度目です。前に働いていた工場の先代社長も、私を雇ってくれた人ですが、私の手を見て明日から来いって雇ってくれました」
「そうか。いい人に拾ってもらったな。職人にとって、手は履歴書と同じだからな。それに書類と違って、手は嘘をつかない」
「先日、その人からも同じようなことを言われました」
「忘れもしない。お前が中学を出て直ぐにうちに来た時は、無口でな、目だけがぎらぎらしたガキだった。俺の所に回されてきてな。俺は、どうせ長く続くまいと、高をくくっていたんだ。
ある時、何でうちなんて小さな会社に入ったって聞いたら、『早く一人前になりたいんです。それには小さい会社の方が、何でもやらせてくれるだろうと思いました』なんて、ぬかしやがる。甘くねぇぞと言うと、『はい。覚悟の上です。よろしくお願いします』ってな、口では殊勝なこと言いながら、俺を睨んでやがる。
確かに大口を叩くだけのことはあった。根性はあったな。よく頑張ったよ。仕事が終わった後も、俺を離してくれないんだ。教えろってな。熱心だった。残業代も付かないのに、大層なことだ。くたくたになりながらも、一日も休まず夜間高校に通って、ちゃんと卒業したのには感心したよ。卒業を報告に来た日に、浴びるほど酒を飲ませてお前を潰したのは、俺だ。次の日、お前は使いものにならなかったな」
井上は口を歪ませた。思い出し笑いのようだ。
「俺の持っている技術の全てを叩き込んだ。相当厳しいことも言った。殴ったこともあった。でもお前はよく付いてきた。俺の方が先に音をあげるほどにな。お前の腕はめきめき上がったよ。大事な仕事も安心して任せられるほどにな。さあこれからって矢先だ、お前がいなくなったのは」
ビールを一口飲んで喉を潤しながら続ける。
「アパートに様子を見に行ったが、きちんと片付いて、きれいなもんだった。何か事件に巻き込まれたような感じもないし、失踪したような形跡もない。そしたら社長が何をとち狂ったか、会社の金を調べろって言いだしてな。帳簿を調べたら、合わない所が幾つか見つかった。横領だと騒ぎ出してな。
そんなゴタゴタの最中だ、お前の恋人だという女性が、名前は忘れてしまったが、訪ねて来たのは。捜索願を出すと言うから、『今、彼には横領の疑いが掛かっている。はっきりするまで少し待ってくれ』と言ったら、よほどショックだったようで、逃げるように帰って行った。だがよくよく調べたら、経理の若いのが競馬で擦って、サラ金に手を出した挙げ句、返済に困って会社の金に手を付けたことが分かった」
「……」
「そいつはお前のせいで悪事がばれたことを、逆恨みしたんだろうな、お前も共犯だと言い張ったが、社長も俺も信じなかった。俺はそれまでの頑張りを知っているからな。それは社長も同じだったと思うよ。
気がかりだったのはお前のことだ。お前の行き先に心当たりがないか、保証人だったお母さんに電話したが、履歴書に書いてあった電話番号は使われていなかった。住所を訪ねてみたが、そこには誰も住んでいなかった。お前が偶に見せる暗い目の一因を垣間見たような気がしたよ。
お前には悪かったが、それ以上手間を掛けられなかった。捜索願は出したが、結局それきりだった。本当に、すまん」
井上は姿勢を糺して頭を下げた。
「井上さん、どうぞ顔を上げて下さい。ご迷惑を掛けしたのは私の方ですから」
石井は酔うに連れて、思い出すままに話をした。脈絡のない、細切れの情報を、精一はしっかり胸に刻んでいった。
「俺もこの通り、毎日が暇な爺さんだ。また飲もうや」
石井は精一との名残を惜しんだ。
<続く>