【ショート・ショート】夜のバス
男は、夜のバスに乗り込んだ。この街を出るのに夜行バスを選んだことに、特別な理由などなかった。
ガラガラの車内、一番後ろの席に座るなり目を閉じた。眠れるはずはなかった。それでも目を瞑ったのは、迷いを断ち切りたかったから。
この街で過ごした三年間が、ボストンバック一個に詰まっている。あまりにちっぽけで、あまりにも軽い。自分がこの街で生きていたことが嘘のように思える。
男は歌で世に出たかった。三年間で芽が出なかったら、すっぱり諦めて田舎に帰る。上京する時から決めていた。
路上ライブから始めた。夕方からのK商店街のアーケード下が男の舞台だった。
始めた頃は、素通りする人がほとんどだった。それでもめげずに続けていると、少しずつ立ち止まる人が増えていった。
ある日、男がギターを仕舞っていると、
「あなたの歌、好きです。頑張って下さい」
今日も最初からずっと聞いていてくれた娘だと気づいた。
「いつも、応援してくれてありがとう」
と言うと、娘はぺこりとお辞儀して走り去った。
それから路上ライブの度に見掛けるようになった。
インディーズレーベルからCDを出した日。男はその娘に、その一枚をプレゼントした。
娘はお礼にと、腕によりを掛けて料理を作った。
その日から、二人で男の夢を追いかけるようになった。
売れないまま三年が過ぎた。あと一歩の所まで行ったこともあった。このまま夢を追い続けたい気持ちはある。だが頑張ればどうにかなる世界ではない。無念だが、時間切れだ。男は初心を貫いた。
女に別れを告げた日。
「私は、どうすればいいの?」
女は夢を失った。
「すまない」
男は、血がにじむほど唇を噛んだ。
バスが、動き出した。男は、バスの振動に身を任せた。
どん、どん。窓ガラスを叩く小さな拳。真っ赤な唇が男の名を呼んだ。泣きながら、何度も、何度も。
悲鳴にも似た声は、雨音にかき消されていった。
「すまない」
男は謝った。目を閉じて、繰り返し、繰り返し。
はっと眠りから覚めると、いつの間にか雨が降り出していた。どこかの看板が窓ガラスに赤いネオンを滲ませていた。
夢か。
街が雨に流れて行く。夢が砕け、涙が溶けた。
疲れた顔が窓ガラスに映っている。
夜のバスは走る。走り続ける。