【連載】冷蔵庫と魔法の薬 (7)
7.魔法の薬
ジェニーのピッチが上がって目が据わってきた。水割りは途中からストレートに替わっている。
「私たち、もう親友よね?」
「うん。ジェニーがそう言ってくれると嬉しいわ」
「タマキは、秘密を守れる?」
ジェニーが声を落とした。人懐こいジェニーの顔から笑いが消えた。酔った目でじっと環を見つめたまま、瞬きもしない。環は蒼い瞳に吸い込まれていくような気がした。環は目を閉じて頭を振る。再び目を開けると、射るようなジェニーの目がまだそこにあった。環は思わずたじろぐ。
「どう?」
声に応じたかのように居間の灯りが、咳き込んだように明滅を繰り返した後、ふっと消えた。環はぞっとして、辺りを見た。
「どう?」
隣接する台所の灯りを受け、ジェニーの目が蒼く光る。うん。環は慌てて何回も頷く。
「じゃあ、親友になった証に、私の家に古くから伝わる秘薬をあげるわ」
「秘薬?」
「そう。タマキ、錬金術って知ってる?」
「錬金術? 知らない」
「そうか、あまり一般の人には馴染みないか。怪し気だものね。IT関係の仕事しているのに、そんなオカルト的なものを信じるなんて、変だと思うでしょう。でもね、人は誰でも相反するものを持って、心のバランスを取っているものなのよ。私の場合はこれ」
「そうなの?」
「錬金術って、他の物質から金を作ることだと思っている人が多いけど、究極の目的は不老不死の薬を作ることなの。私の先祖もそんな一人だったらしいわ。色々な薬草や鉱物などを調合して、新しい薬を作っては自身で試していたらしいの。殆どが失敗だったんだけど、ある時偶然それらができたらしいの」
「それら? どんなもの?」
「二種類あってね、一つは惚れ薬、もう一つはその逆で相手を嫌いになる薬」
ジェニーはハンドバッグから小さな瓶を二つ取り出した。瓶はいずれも濃い茶色で中身は見えない。きつくコルクの栓が閉めてある。それぞれに赤と黒のラベルが貼ってあるが、どちらも文字や絵はすり切れて読めない。
「人の脳は、爬虫類や鳥類の脳、下等な哺乳類の脳、そして高等な哺乳類の脳の三つからできているって話、聞いたことない?」
ジェニーの声が禍々しく響く。環はさっきから彼女の目を外せない。環は首を横に振った。ジェニーは赤瓶を手に取り、
「そう。難しいことは省くけど、兎に角ね、この薬はその最下層の動物脳に作用するみたい。例えばね、鳥の雛は孵化して最初に見たものを親だと思い込むの。それをインプリンティング、または刷り込みとも言うんだけど、それと同じ効果が得られるのが、この赤瓶。謂わば惚れ薬ね」
ジェニーは赤瓶をテーブルに置いた。
「一方、蛇やネズミは親鳥が巣を空けた隙間に卵や雛を食べてしまうから、鳥にとっては天敵なのね。だからこれに関する脳の部分を刺激すれば、相手を嫌いにさせたり憎ませたりすることができるという訳なの。それがこの黒い方の瓶」
ジェニーは二つの瓶をテーブルに並べて置いた。環はごくりと唾を飲み込む。
「これをタマキにあげる」
ジェニーは環の腕を引き寄せ、それらを手のひらに押し込んだ。
「でも、いいこと。幾つか守らなければならないルールがあるの」
「ルール?」
「そう。まず一つ目。一回に一粒。効果が現れるのは個人差があるから一概には言えないけど、多くても三粒。続けて飲ませる場合は、三日以上開けてね。飲み過ぎると脳に異常を生じたり、最悪命の危険さえもあるの」
「二つ目。赤と黒を混ぜて飲ませてはダメ。過去に死人も出ているらしいから、絶対守ってね。それから、このことは誰にも秘密。例え親や恋人でもね。いい?」
環は頷きながらも、二つの瓶から目を離せなかった。
ジェニーは残りのウイスキーをグラスに注いだ。
「体に害はないの?」
環は半信半疑でジェニーを窺う。だがジェニーは真剣な顔で射るような目を環に向けている。
「ルールを守ればね。他に質問はない?」
「なぜ、二つの相反する薬をくれたの?」
「念のためよ。好きになったり、嫌いになったり。恋愛なんて、どこでどう転ぶか、分からないでしょう」
「それは、そうだけど……」
ジェニーはグラスを空けた。環は黙りこんだままだった。
「じゃあ、私、帰るわね」
環は思いついたように、
「あっ、待って。もう一つ。なぜ、ニイニに使わなかったの?」
「前の時は、母が教えてくれなかったのよ。母が言うには『あなたは器量が良いから、必要ないと思った』んだって。でも今回はこれをくれたの。それって、どう言う意味! って話よね」
ジェニーが笑った。しかし環は硬い表情のままだった。
「今夜だって、使うチャンスがあったのに……」
「そうなんだけどね。ケンジから冷蔵庫の話を聞いたら、その気が失せたの」
「冷蔵庫の話って?」
「私からは言いたくないわ。ケンジに聞いて」
程なく、カーテンの隙間から白み始めた空が射し込んできた。
「あら、もう朝ね。じゃあ、私これで帰るわ。今日はタマキに会えてよかった」
「私もジェニーと話せて嬉しかった。もう少しすれば、ニイニも起きてくると思うけど……」
「いいえ。こんなひどい顔を見せたくないし、それにホテルに戻って着替えないと、今日は事務所を探す予定なの。あっ、これ秘密ね。ケンジには、今日帰国するって言ってあるの」
「事務所って?」
「日本でコンサルタントの会社を作るの。だから彼と会う機会も増えるかもよ。タマキが落ち落ちしていたら、私達『焼け木杭に火が付く』かもよ」
「ジェニーは諺も得意なの?」
「ケンジがよく使ってのよ。その度に、どういう意味って聞いてたから、それで覚えたみたい」
「タマキは、ケンジのこと好きでしょう」
「ええ。でもなかなか私の方を向いてくれないの」
「私の方を向いてくれない?」
「私の気持ちに気づいてくれないってこと。私を女性として見ていないみたい。幼なじみが長すぎたのかな」
環は寂しそうに笑った。
「ずっと待っているのに……」
「あの朴念仁を相手に、それじゃだめよ。自分から攻めないと。さっそく、惚れ薬を使ってみたら。あら、これって日本語の諺にあったわね。『敵に塩を送る』だったかしら。それとも『藪蛇』、それとも『寝た子を起こす』だったかしら」
「まあ、そんなことまでよく勉強してるのね。ジェニーの立場次第では、どれも当てはまるような気がするわ」
「立場か……」
そう呟きながら、
「今度こそ、帰るわね。ケンジによろしく」
ジェニーは振り返ることなく部屋を出て行った。
<続く>
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