【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】リスト (8)
8.
<平成二十六年十一月十一日>
電車が鶴岡駅に近づくに連れて、精一の緊張は高まってきた。ホームに滑り込んだ時には、心臓の高鳴りは痛みに近いものになっていた。
「心臓によくないな」
「ん、何か言った?」
「いや何でもない。お前、何だか嬉しそうだな」
「だって久々の遠出ですもの」
「遊びじゃないぞ」
「いいじゃない、少しぐらいうきうきしても」
「子どもみたいなやつだな」
亜希子は意に介する様子もない。
私の手柄よと亜由美は言い張っていたが、今回は平日でかつ遠いという理由で亜希子が付き添った。七時に大和駅を出て、電車を何本か乗り換え鶴岡駅に着いてのが午後一時頃。昼食は車中で駅弁を使った。六時間弱の移動は、精一には流石に堪えた。
「いつもお前達に世話を掛ける。すまんな」
「いいのよ。でも今のお父さん、生き生きしてる。一時は、お父さんまで逝ってしまうんじゃないかって、本当に心配したんだから」
「すまん」
奈津美の義姉が駅で出迎えて、そのまま車で奈津美の家まで送ってくれた。
「この辺は田舎だから、車が必需品なんですよ。タクシーの台数も少ないし、気にしないで下さい」
恐縮する二人に、彼女は義妹に届け物をする序でで申し訳ないと笑った。家までは車で二十分ほどの距離だった。
庭先で二人を出迎えた奈津美は、精一の顔を見るなり「隆司さん」と言ったきり絶句してしまった。みるみる涙が溢れ頬を伝う。
「奈津美さん」
義姉がたしなめる。我に返った奈津美は精一が困惑顔で見ていることに気づいた。
「あっ、ごめんなさい。取り乱してしまって。さあ、お上がりになって」
奈津美は涙を拭った。
「これ、頼まれた物」
義姉が無造作に古びた段ボール箱を奈津美に渡す。
「ありがとう」
「じゃあ、私はここで失礼いたします。どうぞ、ごゆっくりしていって下さい」
義姉は奈津美に小さく頷いて、帰っていった。
二人は客間に通された。
奈津美が席に着くのを持って、精一は尋ねた。
「私をご存じなんですよね?」
奈津美が怪訝そうな顔をする。
「私は、昔のことを覚えていないんです。交通事故で記憶を無くしました。住所も名前も分からなくて、新しい戸籍を作りました。今は山村精一と名乗っています。その時世話になった女性と結婚して、これが娘の亜希子です」
「そうでしたか。義姉に電話でお話になったことは本当だったんですね。ちょっとメガネを外してもらえませんか」
奈津美はまじまじと精一の顔を見る。
「胸に、百円玉ぐらいの痣がありませんか?」
奈津美はこの辺りと指で自分の胸を指して位置を教える。
「ええ、あります」
奈津美の目が潤む。
「目元に若い頃の面影があるし、間違いないです。あなたは隆司さんです。田原隆司さんです。よかった、生きていらしたんですね」
「それで、私はあなたの……」
亜希子が精一の脇を小突いて最後まで言わせなかった。
「奈津美さん、ご結婚はされたんですか?」
「はい。あれからしばらくして、会社を辞めて、田舎に戻って、親が勧める人と……。今は高村です」
「お子様は?」
「娘が一人、息子が一人。もう二人とも結婚して家を出ました。孫も三人おります。もうすっかり、おばあちゃん。あれから随分時間が経ったんですね」
精一は自分の名前と、奈津美がかつての恋人だったことを知ったが、感慨はなかった。
「その優しい目、昔と変わってないですね」
精一は曖昧に笑うしかなかった。
「奥さんは、どんな方でしたか?」
「どんな、ですか?」
精一は少し考えた。
「妻は看護婦をしておりました。事故で記憶をなくした私を、献身的に支えてくれました。よく笑う、優しい女性でした」
「そうですか」
言いながらふっと浮かんだことが、精一の口を吐いた。
「菓子折の包装紙を破らないように丁寧に解いて、きれいに畳んでいました。そんなことを覚えています」
「お父さん、何、そんな変なことを…」
「いいえ、何となく分かります。素敵な方だったんですね」
あの頃二人で描いていた未来が、全く違う二つの姿に形を変えて、今ここで再び相見えている。奈津美は想像だにしていなかった。
奈津美は段ボール箱を精一の方に押しやった。
「これ、隆司さん、いえ精一さんの部屋に残されていた物です。一年間待っていたんですが、戻って来る気配がないので、部屋は解約しました。申し訳ありませんが、家具や衣類は処分して、細々とした物だけ預かっていました」
「一年もの間、父を待っていて下さったんですか?」
「と言うより、気づいたら、一年が経っていたという感じでした。今日こそは帰って来るんじゃないかって。私、諦めの悪い女なんです」
段ボール箱の中にはアルバムや本などが入っていた。
「これは通帳と印鑑です」
表紙が少し焼けた通帳には『田原隆司』と記名されていた。
「あの、部屋代は?」
「はい。電気代なども、通帳から下ろして済ませてあります」
「何から何まで、ありがとうございます」
いいえ。奈津美は小さく首を振った。
「あの、宜しければ、当時のことを教えて頂けないでしょうか」
「でも、もう細かいことは忘れてしまって。アルバムを貸してもらってもいいですか。写真を見れば少しは思い出せるでしょうから」
アルバムは三冊あった。現像と同時にプリントするともらえた、フィルム会社提供の簡易的なアルバムだった。色褪せて、小口の部分が黒ずみ、表紙が落ちかかったり、喉の部分が切れそうになっていた。
「そう、初めて隆司さんに会ったのは……」
奈津美はそれをそっと捲りながら、二人の出会いから、初めてデートで行った遊園地のことなど話していく。日付やその日の天候まで詳しかった。
写真を見ながら思い出すと言うより、話に合わせてアルバムを繰っているように見えた。
一年弱の思い出はアルバムの三冊目の中程で止まっていた。奈津美は、そして隆司はその後にどんな人生を夢見ていたのだろう。
「連絡が取れなくなったのは、昭和五十一年の六月五日のことです。その日の夕方会うことになっていたんですけど、隆司さんは現れなくて。何の連絡も無くて。こんなこと初めてで。アパートに行っても留守でした。私に黙ってどこかに行くなんて考えられませんでした。
事故に遭ったんじゃないかって、近隣の警察や病院に問い合わせたりしましたが、あれって家族にしか教えてくれないんですね。しかも電話では問い合わせもできなくて。
有給休暇も使い果たして、その後も休日のほとんどは病院回りに費やしてました。でも途中からは惰性というか、もう意地だけでしたね」
奈津美の執念というか、若さ故の狂気めいた勢いに、精一は気圧された。
「では、佐野病院を訪ねられたのも、その時に……」
「ええ、おそらくそうだと思います。ごめんなさい、一々病院名まで覚えていなくって。小田急線と南武線の沿線の病院はほとんど回りましたから。もっとも、ほとんどの病院で門前払いでしたが。
そこもやはり受付で拒否されて、帰ろうとした所を婦長さんって方が、名前は忘れてしまいましたが、私を呼び止めて話を聞いて下さったんです。どこでも事務的な対応ばかりで、初めて優しい言葉を掛けてもらって、涙が出ました。本当に嬉しかった。
ですから私、藁にもすがる思いで、連絡先を手帳の切れ端に書いて渡したんです」
「父は、その頃、どんなでしたか?」
「優しい、明るい人でした。でも偶に、笑顔の奥に影があるというか、心の底が見えないと言うか、そんなことを感じることがありました。それが突然私の前からいなくなった要因かなと考えたこともありました」
「私の仕事のこと、ご存じありませんか? 会社とか」
「会社……ですか」
奈津美は口籠もる。
「残念ながら……」
恋人に会社名さえ教えていなかったなんて、何て薄情な奴だと精一は自分自身に怒りを覚えた。
「そうでしたか。すみません」
「いえ、謝っていただかなくても」
「お父さん、そろそろお暇しましょう」
亜希子が精一を促す。タクシーを呼んでもらった。
「でも、よかった。お元気な姿を見ることができて」
「今でも、昔のことを思い出されることがありますか?」
亜希子が聞いた。
「いいえ、先日電話をもらうまで忘れていました。先程も写真を眺めながら、あの頃のことは夢を見ていたみたいで、どこか違う世界のことだったように思えます」
奈津美は遠くを見るような目をした。
タクシーが到着した。日は傾きかけていた。
「今日は、貴重なお時間を割いて頂いて、ありがとうございました」
「こちらこそ、こんな遠方まで来て下さって、ありがとうございました。これでやっと思い出に区切りを付けることができました」
奈津美は玄関先で二人を見送った。二人の姿が見えなくなると、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
「とうに忘れていたはずだったのに……」
顔を覆った指の間から嗚咽が漏れた。
「奈津美さん、区切りって言ってたわね。けりじゃなくて。今日まで思い出したことはなかったってて、嘘ね。あの人泣いてたよ。お父さん、これでいいの?」
亜希子は同じ女性として、奈津美の心を慮ると切なくなった。
「いいも何も、もう三十年以上前の話だ。それに忘れていたわけじゃない。そもそも記憶が無いんだ。どうしようもないだろう」
「だって、あんなにすらすらと思い出せるなんて、繰り返しアルバム見ていたからよ。奈津美さん、お父さんのこと、今日まで忘れたことなかったんじゃないかって、気がするわ」
「でもなあ。確かに写真に写っているのは俺だけど、何も浮かんで来ないんだ。誰か別の人の思い出を見せられている思いだったよ」
亜希子に指摘されるまでもなく、精一にも分かっていた。全く記憶の端にも昇ってこない。もどかしくて胸を掻き毟りたくなる。だけど、どうにも仕方ない。時は戻せない。
「忘れられない思い出と、思い出せない記憶。どちらが悲しいのかしら」
亜希子は音にならない声で独りごちた。
「待って下さい」
ホームで電車を待っていると、奈津美が息急き切って追って来た。
「どうかされたんですか?」
「嘘なんです。隆司さんが勤めていた会社、本当は知ってます」
「えっ」
「会社を訪ねるのは憚られたんですが、何か連絡が入っていないかと思って。そしたら、会社の方でも騒ぎになっていました」
「どういうことですか?」
「無断欠勤してアパートにもいないと聞いて、不審に思った社長さんが、経理を調べさせたら、不正が見つかったらしくて。隆司さんの横領を疑っていたみたいです。額がそれほど大きくなかったので、警察には届けなかったようですが」
「横領、ですか?」
衝撃だった。自分が罪を犯したと信じたくはないが、記憶が欠落しているので申し開きの仕様もない。ただ知ってしまったからには、そのままにしておけないと思った。
「それは何という会社ですか? 謝罪に行ってきます」
「でももう時効は成立していますよ」
「いえ、そういう問題ではないと思うんです。きちんと償わないと。事件になっていなくても、犯罪は犯罪ですから」
奈津美はくすんだ名刺を差し出した。
「この一ノ瀬製作所という会社です。その時お目にかかった方は、井上勝彦さんで、あなたの上司だったそうです。その方を訪ねればもっと詳しい話が聞けるはずです」
心に重い荷物を抱えて、精一は帰途に着いた。車中、精一は目を閉じたまま一言も発しなかった。亜希子も掛ける言葉を持っていなかった。
記憶にはないが、自分には拾わなければならない過去がまだ沢山ある。
そのことを改めて亡き妻が教えてくれた。精一はそんな気がした。
<続く>