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【ショート・ショート】鍵

 郵送した方がよかったかしら。
 エレベーターのドアが開いた時、私は後悔した。

 でも、郵便受けにこの鍵を投げ入れれば、それで終わり。
 自分を奮い立たせるように一歩を踏み出した。薄暗い廊下にコツコツと靴音だけが響く。ドアの前に立つと、想い出が走馬燈のように脳裏を巡り、私は軽いめまいを覚えた。

 もう一度会いたい。
 唐突にそんな思いが胸に湧き上がってきた。
 それでどうなるって言うの、苦しいだけよ。
 分かっているけど、一目だけ。
 鍵を取り出そうとした手が止まり、躊躇ためらいがちにチャイムに伸びる。
 何をやっているの。
 ボタンまでの距離が無限に思える。震える指がボタンに触れた。

 ピンポーン。
 心臓が早鐘を打つ。
 もし彼が出てきたら何て言う積り。久しぶり。元気だった?
 逃げ出したくなる気持ちを足踏みして抑える。胸が苦しくなった。
 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。ドアの向こう側で、チャイムだけが空しく響く。
 よかった……。……居ないんだ。
 安堵と落胆が私の中で渦巻く。
 ふうっ。
 大きく息を吐きながらハンドバッグから鍵を取り出した。

 さあ、郵便受けにこれを落としたら、それでお終い。
 じっと鍵を見つめていると意思とは裏腹に手がドアに伸びた。鍵穴に差し込んで回すと、カチリと乾いた音がした。
 あっ、開いた……。
 鍵、替えてなかったんだ……。
 ドアを開けて、おずおずと三和土たたきに上がり込む。
 かつては二人の愛の巣だった。どきどきしながら初めて訪れた日。いっぱい愛し合って、いっぱい料理も作った。独りあの人の帰りを今か今かと待ったこともある、この部屋。
 ああ、懐かしい。
 ほんの少し前のことなのに、随分昔のような気がした。

 私のお気に入りだった黄色いソファー。靴を脱ぐのももどかしく、勢いよく尻を落とす。ソファーは跳ね返しながら、今も優しく包んでくれる。
 変わってないな……。
 ソファーの背もたれに手を広げながら、周りを見渡す。

 あれっ。
 その時、私はどことなく違和感を感じた。改めて、視線を巡らす。家具や配置は変わっていない。カーテンも同じ。無造作にベッドに投げられた服も見慣れた物だ。
 んっ?! においだ。
 臭いが違う。テーブルの上の灰皿。そこには見慣れないタバコの吸い殻があった。
 タバコ……替えたんだ……。
 私と付き合っていた頃は、赤い丸が印象的な箱のタバコだった。
 ……そうか、替えたんだ。

 しばらく吸い殻を眺めて、やっと未練を断ち切ることができた。
 私はハンドバッグをぎゅっと胸に抱きしめながら部屋を出た。

 そっとドアを閉めて、鍵をドアの郵便受けに落とす。
 ガッチャン。
 思いの外大きな音がした。
 最初からこうすればよかった。

 一旦終わった時間はどう足掻いても元には戻らない。戻せない。分かっていたはずなのに……。

 私はとぼとぼとエレベータに向かう。

 ちょっとした刺激でも壊れてしまいそうな微笑を貼り付けて……。


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