【ショート・ショート】落書き

「こらーっ!」
 修太が夫の部屋から飛び出してきた。
「待たんか、こら」
 夫が追い掛けるが、修太の足にはかなわない。夫は少し走っただけで、ひざに手を付いて肩で息をしている。
「まあ、大きな声を出して。どうしたんですか?」
「全くすばしっこい奴だ。修太のやつ、わしの大事な絵に落書きしおった」
「まあ」

 秋子さんが修太を捕まえた。流石の腕白坊主も母親にはかなわない。
「修太、おじいちゃんに何したの?」
「ジィが悪いんだ」
「ジィじゃありません。おじいちゃんでしょ」
 秋子さんは修太の襟首を掴み、廊下を引きって、夫の前にひざまずかせた。修太はふくれっ面。そっぽを向いている。
「謝りなさい」
「いやだ」
「じゃないと、もう二度と連れてこないわよ」
 母親が頭を押し下げると渋々、
「ごめんなさい」
 と小さな声。私も「修太も謝っているから、許してあげて」と助け船を出す。
「今度だけだぞ」
 夫がきびすを返す。修太はその背中にあっかんべーをする。しようりもない子だ。
「こらっ」
 間髪を入れず秋子さんがしかる。
 私に任せて。目配せすると、秋子さんは軽く頭を下げて席を外した。私は修太の手を取り膝の上に乗せる。
「どうしてそんなことするの。おじいちゃんのこと、嫌いなの?」
「ジィは、意地悪だ」
「どうして?」
「ジィの部屋には、面白そうな物がいっぱいあって、だけど僕が触ろうとすると、駄目だ、駄目だって」
「そう」
「だから、代わりに僕の大事なおもちゃを持って行ったんだ」
「まあ、偉いじゃない」
「それでも駄目だって言うから、あったま来て、バカって書いてやった」
「あら、まあ」
 夫も夫、全く子供みたい。私はあきれてさとす気にもならない。

 しばらくすると、夫の部屋から修太の笑い声が聞こえてきた。秋子さんとゆうの用意をしながら、顔を見合わせて苦笑い。

 二日後。修太が帰って、すっかり静かになった家の中。部屋をのぞくと、夫はじっと額を見ている。修太が悪戯いたずらした絵らしい。心なしか口元がほころんでいる。クレヨンで描かれた大きな「バカ」の二文字がガラスの表面で踊っている。絵への実害はなかったようだ。私に気づくと、夫はいつものいかつい顔に戻った。それで私もついおおぎように、
「あら、大変。消しましょうか」
 雑巾を片手に小走りに近づく。
「いい」
 夫は少しあわてる。
「えっ。いいんですか?」
 私が更に一歩踏み出すと、
「いいと言ってるだろう」
 夫ははばむように私の前に出る。
「本当に、いいんですね」
 私はおかしさをこらえる。
「いいか、絶対余計なことするな」
「はい、はい」
 修太の意固地なところは誰に似たんだか。私はついに吹き出した。


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来戸 廉
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