牡丹 28
ぽたりと垂れる湯気の雫
睡蓮は硫黄に侵され
香る銀杏の湯あたり
「黄泉の国には湯あたりをお気になさる方が多く御座います。今晩も月が明るくお客様は誰一人大浴場へは行かれないかと」
ロチの返答にコユキは早口になる。
「小夜ちゃん、貸し切りだってよ。大きいお風呂入ろうよ。ね。いいでしょ?」
純粋無垢な表情に今迄の不安が泡のように消えていく。
「そーだね。大きいお風呂か~。なんだかワクワクするなぁ。ロチさん、お願いしてもいいかな?」
宴の後の静けさに包まれた廊下を腕を組んで歩く。
わたしは少し構えすぎていたのかもしれない。怒涛に過ぎた湯屋での出来事が、非日常だとしても取り越し苦労だと思えた。
朱色の暖簾を潜りカラカラと脱衣場の引き戸を滑らせる。簡素な棚には籠が等間隔で並んでいる。大きな扇風機と大袈裟な体重計。どこか懐かしい風景がそこにはあった。
「温泉なんて初めてだよ」コユキが白い下着を脱ぎながら湯船を眺めている。
「確かに硫黄の匂いがするね。東京にも源泉かけ流しなんてあったんだ」
「小夜ちゃん、詳しいね。温泉好きなの?」
「わたしも、久しぶりだよ。子供の時以来かな」
どぼんと湯船につかるコユキ。
「体を洗ってから入るんだよ。まったく…」
どぼん。
「きゃはははは」わたしの手を引き湯船に引きずり落とす。「もーなんだよぉ」わたしも笑っていた。
湯船に浸かると幸福になれるらしい。
どこかで聞いた雑学。
普段は気にも停めないことが幸福の正体なんだろうな。湯船でじゃれ合っている二人はどこからどう見ても幸せのお手本なんだと思った。
「あー生きかえるよ~」
「そうだね。」
露天風呂に移ると星空が見えた。暫しの沈黙がわたしを無防備にさせていた。
「小夜ちゃん、見える?」
月明かりの逆光に、コユキの裸体のシルエット
胸の膨らみを垂れる雫の先に小さな穴が空いて月光が細く湯に揺らめいている。
「私はね、死んでいるんだよ」
わたしの中で知っていた予感が事実になる瞬間はあまりに淡々と訪れ、それでいて残酷ではなかった。
「婆様との、契約なんでしょ。なんとなく分かっていたよ」
コユキの全てを知っているなんて言わない。哀れだとも思わない。わたしは再確認したんだ。
それでもコユキが好きなんだ。