余生にしたくない
車椅子パートナーという取り組みを行っています。車椅子で当たりまえに外出できるように通りすがりの人が困った人をお手伝いし合える、そんな街づくりを目指しています。
なぜこれを始めたかと言うと、理由は2つあります。今回は、そのうちの1つをご紹介したいと思います。
それは、自分自身が車椅子になろうが歳をとろうが、家の中に閉じ込められたくないから、です。
気まぐれにカフェに行きたいし、図書館や本屋は外せない。友達とおいしいものも食べに行きたい。沖縄旅行は・・海に入れるかなあ・・暑さに耐える体力が残っていたら行きたい。
つまり介護が必要になったからと言って、自分の人生を終わらせたくない。それが90才だろうが100才だろうが“あまりの人生”ではなく、私の人生でありたい。ということです。
要は、欲張りなのかもしれません。いえ、私は欲張りです。人生をたい焼に例えるなら、尻尾まであんこが欲しい。そんなイメージかもしれません。
私は車椅子の営業をする中で、何度かこんな言葉を聞きました。
「車椅子になったら人生終わりだ」
その言葉を聞いたとき、私はいつもこう思うのです。人生を続けるために車椅子があるのに、と。
実際、私の車椅子屋としての仕事はその連続でした。
花見を諦めていた方が、車椅子に呼吸器を乗せて花見に行きました。倒れようがどうなろうが、何が何でも自分でやる!それが俺だ!というガンコな方は、電動車椅子に酸素ボンベ乗せて毎日あちこち出かけていました。職場復帰しなければならない方は、退院から1年半かけて1人で通勤できるようになりました。親孝行したい姉弟は、車椅子で母親を連れて様々なところへでかけていました。見せてくれた写真は、素敵な笑顔でした。最後まで職人でいたい方は、気力体力の許す限り作業場で仕事をしました。
あるお客さんの言葉を借りるなら、「車椅子は相棒」。私のお客さんは、自分の人生を続けるために車椅子を利用していました。
ユーザーから見ると、忌々しいかもしれない。障害やできないことの象徴に見えるかもしれない。実際に使うと、自由度が低いのも事実です。
それでも車椅子はいつでも笑顔の方へ、人の中へユーザーを連れ出す力を持っています。本人が諦めさえしなければ。
そして通りすがりの人、まわりにいる人がほんのちょっとだけ、気にかけ、手を貸せば、車椅子の自由度はもっともっと高まると思うのです。その「ほんのちょっとの手伝い」ができる人と、自分から「お手伝いしてください」と言える車椅子ユーザーを増やすのが目的です。
「車椅子になったら人生終わり」。
この言葉は、そう言った方も含めて、私たち全ての人が作り出した言葉です。この言葉を言った人も、自分が車椅子になるとは思わずに、他人事として過ごしていたでしょう。そして、突然わが身に降りかかり、頭の中で想像してこの言葉にたどり着いたのでしょう。
昨日までの車椅子ユーザーを手伝う人が少なかったのに、自分が車椅子ユーザーになった瞬間から、手伝ってくれる人が増えるという奇跡は起こりません。
今いる車椅子ユーザーに手を貸すことは、私たちが車椅子ユーザーになった時に絶望しない社会を作ることでもあります。車椅子だけでなく、何か困った時に助け合えるゆるい関係ができるでしょう。私たちは、それを自分たちで作る力を持っているのに、それを知らずにいるのはないか。そのように思っています。