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マネージャーが急に飛んだ話

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飛んだのは、僕だ。

今年の2月頃、働いていた会社を飛んだ。


学生の頃テレビを見ていると、「ADが飛んだ」「マネージャーが飛んだ」という話を芸人さんがしていて(大人なのに軟弱で無責任なんだな。辞めるならせめて一言必要だろ)とか思っていた。

時が経って、大人になって、社会人になって、自分がその無責任軟弱野郎になると思っていなかった。


しかも気づいたら僕はその「芸能マネージャー」になっていた。

もともと大学卒業後すぐ上京し、広告の仕事をしていたので、芸能界は華々しいことばかりじゃない世界だとは理解していた。けれど、芸事の第一線で戦う人たちをもっと近くで見ていたいなと思っていたら、縁があり転職することになった。

マネージャー経験のない僕は入社後しばらくは、何人かのベテランのタレントの現場マネージャーとして身の回りのお世話をした。コーヒーを出したり、スリッパを用意したり、先々のスケジュールを連絡したり。マネージャーというよりは、付き人に近い感じだった。車での送り迎えが必要なタレントの現場は社用車を運転し、タクシーで来るタレントは自宅へタクシーの迎車予約をした。

タレントによって細かくルールが違った。コーヒーはブラック派か、砂糖抜きのミルクだけか。スケジュール連絡はLINEだったりメールだったり。1か月まとめて欲しかったり、直前でもよかったり。楽屋には常にマネージャーかスタイリストがそばにいて欲しかったり、外に出ていて欲しかったり。たばこを吸う人はすぐ喫煙所の場所を聞いてくるので現場に入ったらすぐ確認した。電話をよくかけてくる人もいれば、一切かけるなという人もいた。最初はその人ごとの細かなルールを覚えるのが大変だった。エクセルにまとめたりしていた。

比較的厳しい人が多かった。でも、テレビ黄金期に活躍したベテランタレントがマネージャーに厳しいのはよくあることで、怒られながらも(なんかマネージャーぽいな)と新鮮に感じる方が強かった。

それでもやっぱり体力的にしんどいことや、神経をすり減らすことはたくさんあった。

雪の日や台風の日は都内の交通が麻痺するでタクシーがとにかく捕まらない。そもそもの出勤台数が減るうえに反対に利用者が増えるのでなかなか予約の電話がつながらない。4、5時間いろんなタクシー会社に電話しまくってやっと1台予約できた。

時間どおりに来なかったり、送り先がずれていたりした時は自分がクレームの電話を入れなければならなかった。

タレントと同乗しているタクシーは、間違った場所に行かないかグーグルマップを常に開きながら乗った。

一度スケジュール連絡が漏れてしまった時、そのタレントの予定がすでに入ってしまっていて、「行かない」と言われ慌てて自宅まで謝りに行った。

ファン対応が好きじゃないタレントの場合、対応を断る作業はずいぶんファンの人に怒られた。新幹線の改札やライブ会場で色紙を持って待っている人(正確にはサイン転売の人なのでファンではないけど)は、鼻息荒くほとんど突進してくる。それをラグビー選手のようにブロックしていた。

あまり予算のない公演の打ち合わせの時、お金のかかる小道具や衣装をタレントに要求されるのはいつも困った。購入して上司に怒られるかタレントに怒られるかの二者択一。疲れている時は、どちらの選択もせず自分でお金を出したこともあった。

ロケの段取りが悪いと機嫌が悪くなるのでロケスケジュール表と時計を常に見ながら無駄があればディレクターに文句を言いまくっていた。めんどくさいマネージャーでスタッフにはずいぶん嫌われたと思う。

中でも一番しんどかったのは、スタッフや関係者の悪口を聞く時間だった。あるタレントは楽屋や現場移動中、コミュニケーションのほとんど何かへの怒りや愚痴だった。人をあまり信用できない人だった。

今思うとその怒りの8割は「自分への気遣いが足りていない」というジャンルでくくれた気がする。(みんな忙しいし大変だからしょうがないよな)と思いながら聞いていた。でも「タレントの愚痴を聞くのもマネージャーの仕事」と言われていたので、「そうっすねそれはダメですねありえないです」と不満のすべてを肯定していた。保身で他人を売る行為は自分が情けなかったし、とても心が痛かった。


僕はだんだんとタレントに怒られるのが嫌になって、「NO」を言わなくなっていった。

「明日時間ある?」は予定があっても「あります!」

「近くに〇〇あるかな?」も「あると思います!」その後走った。

「あれ間に合うかな?」は「なんとかするようお願いしてみます!」関係者に頭を下げた。

それが【できるマネージャー】と思っていたのか、たいてい「できます」で答えていた。単にコミュニケーションから逃げているだけで、「ちょっと無理です、すみません」で普通に受け入れてくれたと思う。だけど当時はいっぱいいっぱいだったし、何回かに1回ある理不尽な逆ギレの地雷を踏まないように打率を低くしたかったんだと思う。

正常なコミュニケーションが成立している関係性ではなかったのだと思う。

こうやって、しんどかったことや嫌だったことは溢れるようにたくさん出てくるけれど、だからといって担当したタレントを僕は憎んでなかった。毎日が刺激的な現場で多くのことを勉強させてもらった。そしてタレントがメディアに出た時のパフォーマンスを見て「やっぱり最高だな」とよく感動した。辛い時は(表現者はちょっと感覚が飛んでないといけないんだろうな)と自分を納得させていた。むしろそれだけで当時は耐えていた気がする。


2年経ってから、若手のタレントに担当が変わった。現場マネージャーから初めて誰かの専任のマネージャーになれるのが嬉しかった。そのタレントと二人三脚で頑張りたくて、顔合わせの時はその人の魅力を自分がどう捉えているか、そして自分がしたいことを熱っぽく語った。会社から課せられた売上目標も初めて持った。ライブも企画したり、グッズを作ってみたり、いろいろなことが自分の裁量でできるのが嬉しく充実していた。

プライベートと仕事の境目は以前より一層なくなり、土日関係なく、自主的に休みの日も働いた。タレントの為にもっとできることはないかと普段から頭の中でぐるぐる考えた。

結果は意外とすぐ出た。売り上げも前任マネージャーに比べて上がった。テレビの仕事も少しだけ増えたし、タレントの知名度も少しずつ上がっていった。狙ったことがはまっていくのは気持ち良かったし、何よりタレントから感謝されることが嬉しかった。


でも、それから1年経ったあたりから、僕は少しずつおかしくなった。

結果が出だした頃、僕はよく会社への文句や、職場の人の批判を口にするするようになった。働かない上司を嫌悪し、結果が芳しくない先輩のことを心のどこかでバカにしていた。近しい後輩にはそれを口にしていた。

現場マネージャーでロケやテレビ局ばっかり行っていたころより、オフィスにいること増え、会社のことがよく見えるようになった。(案外みんな働いていないんだな)と思った。

若手タレントと比較的仲が良かった僕は若手の事務所に対する愚痴を聞いていた。(甘えているな)と思うことも少なくはなかったが、若手こそ手をかけるべきだという彼ら想いに理解は出来たし、自分の世代からは改善したいと強く思った。


だんだんとタレントとの良い関係性が築かれていく反面、社内では孤立していった。同世代が少ない職場だったのもあったのか、現状を理解するにつれ上の世代の社員への批判的な気持ちが僕の中で増幅していった。


ある日、会議室に上司に呼び出され言われた。


「お前評判悪いぞ」

自分が言っている会社への批判が上司へ回った。今考えれば当たり前すぎることなのにその時は少し狼狽えた。

でも言っていることはあっていると心の中で強がった。

「お前方々で会社の不満言ってるらしいな。いったい何がしたい?」

その時に思っていることを上司にすべて伝えた。こう思っているし、こう思っているタレントも多い。それを誰が言っているか聞かれたが、絶対に言わなかった。


その頃から社内からの僕への風当たりは厳しくなった。細かなミスをとことん指摘された。さらに、僕がいつどんなミスをしたか、知らない間に社内で共有がされていた。それは結構辛かった。

その時期からは「ミスなく完璧に仕事をできるようになってから人を批判しろ」と怒られることが多くなった。仰る通り過ぎたが、心の中では中指立てていた。細かいこと気にしてたら何もできないとミスを棚に上げ、開き直っていた。

何度か後輩たちが心配して気遣ってくれていたが、僕はずっとエンジンがかかった状態だった。(逃げ切り世代を俺がどうにかする!)と息巻いていた。


誰に頼まれていたのだろう。

誰かに承認されたかったのか。

今思うとだいぶ痛々しい立ち回りだった。

これってマスターベーションではないよな?と何度も立ち返って考えていたが、社内の孤立はどんどん深まった。


一番辛かったのは、タレントに迷惑がかかったことだ。

社内外で僕が担当するタレントのイメージが少し下がった。マネージャーである僕への批判にタレントの名前も使われてしまった。実際にタレントの仕事に影響し、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

その汚いやり方に抗議はしたが、「それよりも細かいミスがあるのをどうにかしろ」と取り合ってもらえなかった。

(芸能界超怖いな)と一番思った瞬間だった。

そのあたりから僕は、よくもの忘れをするようになった。打ち合わせを飛ばしたり、しなければならない連絡が漏れていたりした。そのたびに同じ文言で上司に怒られた。

その人は「あのミス聞いているぞ」「評判悪いぞ」「よく思ってないやつもいるぞ」という言葉を多用する人だった。

(そんな揺さぶり自分には効果ないぞ)と思っていたが、それよりもだんだんと自分の頭が回らなくなっている状況に焦りを感じていた。事務的な作業、計算作業の効率がかなり落ちた。集中も続かず、ミスも乱発したし、確認作業が確認になっていなかった。

その後も強気に仕事を進めていたが、ミスは一向に減っていかなかった。

常にそわそわするようになったり、急に自信がなくなったりするようになった。寝つきも悪くなり、家でもずっと落ち着かなかった。

電車もよく乗り過ごした。注意散漫で、自分は人よりも情報処理能力が低いと持って生まれた能力を悔んだり責めたりすることが増えた。




その日は、月に1度ある社内全体会議の日で8時には起きなくてはならなかった。

8時に鳴ったiPhoneのアラームを止めたけど、頭がズシリと重く腹筋に力が入らず起き上がれなかった。

枕に強く顔を埋めていたのを覚えている。呼吸がしにくかったけどその方が気持ちとしては楽だった。

会議は10時からだった。

スマホを見ると時間は9時55分になっていた。(終わったな)と思った。

10時頃LINEの通知が何度か鳴った。内容を見られず通知をオフにした。



13時頃、電話が鳴った。画面に上司の名前が出るとわかっていたが、本当にその文字が目に入るとドキッとした。その時は続けて3回鳴った。どうしても出られず、スマホを握りぼーっと部屋の壁を見ていた。


16時頃また電話が鳴った。同じく上司の名前が表示されていた。

電源を切った。



翌朝電源をつけたら多くの通知が来ていた。会社の人や、番組スタッフの名前だ表示されていた。また電源を切った。


それがさらに2日続き、夕方ごろ家のインターホンが鳴った。

会社の人かな?警察の可能性も頭をよぎり、ドキドキした。息をひそめた。自宅のインターホンが鳴って息をひそめる日が来るとは思わなかった。


(ベランダの窓から出ようかな)とか考えいた時、今度は会社支給のスマホではなく、プライベートの方のスマホが鳴った。

母親だった。今ドアの前にいると言う。


午前中に会社から電話があり、地元の大阪から新幹線で来たのだという。

ドアを開けた瞬間、「良かった」と言い、母は泣き崩れた。

(申し訳ない)という感情だけだった。それ以外の言葉が出てこない。

狭いアパートで母は泣きながら「よく逃げたね、偉かったね。」と言い、僕を抱きしめた。

いきなり会社から電話があったことに狼狽え、2時間半じっと新幹線の席に座り、慣れない上にごちゃごちゃした東京の行ったことにない息子の部屋を一生懸命探す母の姿を想像すると、悲しくなって涙が出た。その時頭に中では繰り返し(どこからミスってたんだっけ)と思っていたのをよく覚えている。


それから少し時間がたって、会社の人に連絡し、僕は休職することになった。


その日の夜は、ファミレスで母とご飯を食べた。

会社であったこと、実家のこと、関係ないこと、いろいろ話したが、僕は自分が思っていることをうまく言語化できなくて苦しんだ。【脳内にあるイメージを、言葉に変換し、音で発声する】その工程がこんなに難しく感じたことは今まで無かった。

その日、母は都内のホテルに泊まることになった。僕の狭いアパートで母と一緒に寝るのは少し恥ずかしかったので、そうなった。

母との別れ際、母が「元気で安心した。何があってもあなたの味方だから。いつでも帰っておいで」と言い握手して別れた。

後悔している。泊ってもらえば良かった。

(僕がリリーフランキーなら一緒に部屋で雑魚寝したんだろうな)とか帰り道、呑気に思っていた。憔悴しているとは言え、いかにも僕らしい自分都合の思考の巡りだ。



翌日、病院に行き「適応障害」と診断された。

「鬱のかなり手前。ギリギリ踏みとどまりましたね」と言われ、診断書となんか漢方的なものをもらった。



そこからはあっけなかった。

休職理由とか、休職可能な期間を超えてたりとか、総合的な判断?で雇用契約が切れた。

人事の人は丁寧に説明してくれ、平和的?な退社だった。

スマホやパソコン、名刺は郵送し、デスクは誰もいなさそうな日にこっそり片付けに行った。捨てるものばかりで特に持って帰るものはなかった。

タレントともこの時点で連絡が取れるようになり、「ずっと心配だったこと」、「退職がとても残念だということ」を伝えてくれた。スケジュールを持ったマネージャーが飛んで、自分たちの生活に大きく影響を与えてしまったのに、自分たちがプレッシャーになっていなかったかを気にかけてくれ、そんな気持ちにさせたことを、改めてどうお詫びしていいか、言葉にならなかった。


休職期間は傷病手当をもらったが、雇用が切れてからハローワークに行き、失業手当に切り替わった。なので毎月16万ぐらいで暮らしている。給付金のニュースは単純に嬉しかった。


退職してからの日々、コロナ自粛も重なったこともあり、ずっと当時のことを振り返っている。


(あの時ああしていれば。)

(あんなことするんじゃなかったな。)

(もっとやり方なかったのかな。)

とぐるぐる考えていた。


(会社に恵まれなかったな)

(なんで俺だけ)

(正しかったはずなのに)

(こうしている間にもあいつらは)

なんてことも何度も頭に浮かんだ。


散歩しながら突発的に嫌だったことがフラッシュバックして「はぁっ!」や「ゔぅっ!」と声が出そうになる。というか出ていた。


それでもだんだんと会社やいろんな人たちのことを恨んだり憎んだりする気持ちは薄れていった。(だいぶ遅い)

それよりも(あれだけ啖呵切り倒したのに恥ずかしいな)(番組の人にもたくさん迷惑をかけてしまったな)という気持ちの方が日に日に膨れ上がっていった。

家にいながら(本当は今ごろzoomでリモートで会議とかしてたんだろうな。)とか考えていた。



3か月経ったぐらいから、少しだけ物事を前向きに考えられるようになっていった。

人と会う時は、素直に言葉を選んで丁寧に喋れるようになった。

バラエティ番組を見て笑うようになった。

本や映画を観る時間が増えた。

小学生ぶりに映画館で観た『千と千尋の神隠し』は、カオナシが好きになった女の子に拒絶され、その事実を受け入れられず暴れてて心が痛かった。

散歩が日課になり、ラジオや音楽を聴きながら何時間も東京の街を歩いた。(みんな当たり前のように働いて偉いな)と思った。

たまに乗る電車は誰かに会いそうでソワソワした。テレビ局や制作会社がある駅は通らないよう、乗り換えを何度もして遠回りした。



次に進もうと、転職エージェントにいくつか登録した。コロナ渦だからリクルーターと電話で面談し、今までやってきたことと希望職種を伝えた。もちろん前職の辞め方は嘘をついた。


まったく興味のない業界の面接は辛い。狭い自分のアパートでのビデオ通話面接。志望動機なんて1ミリも浮かんでこない。お金の為だとやんわり言ってしまった時は画面越しにも面接官がムッとしているのが分かった。慣れない自己紹介に汗が吹きだす。前職の辞め方を聞かれている自分の顔は完全に引きつっていた。広告やエンタメの時は何を聞かれてもすらすら言葉が出てきたのにな。(まだまだ甘ったれているんだろう)



とりあえず頑張ろうと、思っている。

次の何かになるんだと思うようになれた。

次の職場では、もっと謙虚に人と接しよう。

人に感謝しよう。

人生の最初の頃に言われることは、大人になってからの方が大事だった。


今まで何度も(僕はマネージャーは向いていなかったのか?)と自問した。

今は、(向いていなかったんだ)と思っている。

自分なりに頑張ったが、あの青臭い立ち回りで、あの辞め方をした人は向いていない。

そう言い聞かせ、結論付けている。


でも時々、(もっと頑張りたかったな。)と寂しさと悔しさを、自分が感じていることに気がつく。



【※多方面に迷惑がかからないよう、少しだけ事実と情報を変えています※】

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