※ネタバレ有※シンエヴァ「感想」
シンエヴァをようやく観てきた。
めっちゃネタバレあります
1.観る前の話
映画鑑賞直前に慌てて破・急を見直したような人間が言うのもおこがましいが(仕事が忙しかった)、
チケットを予約してからの数日間は本当に首を長くして待っていた。
それは予告編で見たパリでの戦闘シーンが観たかったからでも、世界をリセットし損ねたシンジ君の行く末が気になったからでもない。
90年代中盤生まれのオタクとして、旧劇視聴者が1997年7月19日に味わったという"アレ"を心待ちにしていたからだ。
阪神大震災前後に生まれた人間にとって、物心ついた頃にはエヴァは既に「昔のロボットアニメ」だった。
自分はガンダム等ロボットアニメに疎く、面白フラッシュ倉庫の替え歌動画で本作を知ったほどだった。
なんだか漢字が多くて、ロボットのウエストが細くてカッコいいなぁ位の気持ちで見始めた本作に、中学生の自分は気付けばハマっていた。
作品自体の面白さに加え、「昔の・大人向けの・オタクが考察とかしている」アニメを観ているという優越感が確かにあったと思う。
そんな折、新劇場版の制作が発表された。
もう14年も昔の事なのでほとんど覚えていないが、明らかに美麗になった映像に感激した事・1世代上のオタクがリアルタイムで体験した"アレ"を
自分も・劇場で体験できるのではという事実に興奮していた事は覚えている。
「アレ」というのは、所謂エヴァロスである。
英題:The End of Evangelionと銘打たれた旧劇に、当時の人々はアニメ版ラスト2話の分かりやすい解釈を求めていたはずだ。
ところが蓋を開けてみると、そういった人々にとっては余りにも不親切な幕引き、そして「終劇」の2文字があった。
詳細は滝本竜彦先生の有名な「綾波忘却計画」冒頭を参考にして欲しい。
https://tatsuhikotakimoto.com/2019/07/07/ayanami-forgettiong-project/
当人達はさぞ行く末を失った感情のやり場に困った事と思うが(それによってネット小説等の文化が活性化したとも聞く)、
90年代生まれの自分からするとそれが本当に羨ましかった。
なぜなら、創作作品によってそこまで巨大な感情の起伏を促された経験がなかったからだ。
序と破を中学生・急を高校生の時に観た(多分)。
エヴァロスを味わいたいなんて邪な動機を忘れてしまう程の映像美に酔いしれた。
蛍光色を強調した初号機が、圧倒的グラフィックで動き回る様が痛快だった。
あれから9年経った。
学ラン姿でQを観たkuruharaは、新劇場版の完成を観ることなく社会人になってしまった。
当時のことを思い出しながら映画館の席に座った時、今から2時間と少しで10年来の楽しみを味わい、失うのだという事実が脳裏をよぎり、
緊張から吐きそうになったことを覚えている。
そんな感じで開幕した。
冒頭で流れていたのはバッハの「主よ人の望みの喜びよ」だったと思う。
2.感想
前置きの自分語りが長くなってしまったので、まず二元論で評価したい。
本作をアリかナシかで言ったら、アリだと思う。
本作は第三村の復興を描いた序盤・ネルフとヴィレの決戦を描いた中盤・キャラクター内面と過去の作品群を俯瞰的に描いた終盤に分けられる。
序盤は、シンジ達がやっていることは今までの派生作品でよく見られた「日常エヴァ」に近かった。
ただし本作が2011年3月11日を経て制作・公開された事から、震災に感化された庵野的ヒューマニズムが意図されたことは明白だった。
(旧劇が阪神大震災の後に作られたのに、あれほど厭世的な作風に仕上がったのとは対照的だとも感じた)
庵野監督に何があったのか?
多分、シンジが本作で自己と向き合い、あのような結末を望める人間になったのと同様に、監督も「オトナ」になったのだと思う。
ネットでは賛否両論あるようだが、個人的にはすごく良い導入だと感じた。
エヴァというコンテンツを終わらせるにあたり最大の障壁となるのは、エヴァに没頭し現実に帰らぬオタク達であることは明白で、
つまり序盤で第一次産業筆頭である尊い農業を見せることにより、お前達にリアルへの引導を渡すんだという作品の意思表示に思えた。
プラグスーツを着た綾波レイが農業で汗を流す姿に心動かされぬオタクがいるだろうか?
中盤は、ネルフと旧ネルフスタッフで構成されたヴィレとの決戦が描かれた。
旧劇との最大の違いは、旧劇はネルフ対戦略自衛隊(外敵)という構造だったのに対し、本作は言わばネルフ対ネルフという内紛とも言える構造だった点だ(これはQからだが)。
旧劇における「最後の敵はバケモノではなく人間」というデビルマン的展開は、まさしく、他者との関わりに葛藤するシンジの心情を表したかのようだった。
対して本作では、ラスボスはかつての上官であり父であり先生であり… であった。
Uriah HeepのLook At Yourselfという名盤がある。
邦題を「対自核」と言い、ジャケットには鏡を模した銀紙が張られている。
全くの余談だが、中盤に差し掛かった時にこの「対自核」というワードとあのジャケットが頭に浮かんだ。
本作で「内省」が主題の一つになっていることを、中盤以降の展開を見て確信した。
最後に終盤だが、旧劇のようなメタ的描写を通じ、シンジが他人そして自分と向き合う様が描かれていた。
戦闘シーンがCG満載だったのに対し実写的描写が明らかに増えたことからも、上述したような視聴者へのメッセージ性が最も強いパートだったと思う。
特に印象的だったのはやはり父ゲンドウと向き合うシーンだ。
現実時間で20年余もの間偏執的に追い求めてきたユイの面影を、ずっとそばにいた、しかし拒絶していた息子シンジに見ることに成功する。
(漫画版ではユイの愛情を一身に受ける息子が妬ましい的なことを言っていたが、本作ではどうだっただろうか…(痴呆))
目線を外(人類補完)から内へ向けることで問題の解決を図ったゲンドウの様はまさに、現実離れを止められないオタクへのアンチテーゼのように思えた。
TVアニメ版のカットシーン・タイトル題字が映し出されたり、例の赤い海と砂浜でアスカと対峙したりと、これまでのエヴァンゲリオンに「ケリをつける」「落とし前をつける」ことに成功したシンジは、最後にマリと恋仲になったことを示唆し、駅の階段を駆け上って終劇を迎える。
ここでのシンジは声変わりしている(よね?)上、今までであれば絶対に有り得ない加持的なセリフ(胸の大きい良い女~)を発している。
マリがリセット前の世界でシンジに提示した「だ~れだ?」に対する答えを、ここでシンジが自発的に発したことになる。
世界をリセット=エヴァンゲリオンというコンテンツから離れ、いい加減大人になれというメッセージだと安易に受け取っていいのだろうか?と
訝しんだほどに明快なシーンだった。
反対側のホーム(=反対方面の電車に乗るor乗ってきた)に本作のデザインドヒューマンたるレイ・カヲル(アスカも居た?)がいたこともその証左に思えた。
実際に映画を見れば一目瞭然だが、作品がこれらの3部によって過不足なく構成されており、まとまりが良く、その点において「アリ」だと評価したいし同感のオタクも多いだろうと思った。
3.総括
待望のエヴァロスを味わえたかというと微妙だった。
それは余りにも長い時間待たされ(コロナとかもあったので仕方がない)エヴァから離れていた事と、本作が旧劇にはなかった現代的優しさに満ちた突き放しで幕引きになった事に起因していると思う。
震災が本作をそうさせたのか否かは、予告編の映像でパリの戦闘しか描かれていない為分かりようもない。ただ、総括すると、とにかく優しくオタク共をエヴァからパージしてくれる作品だったと感じた。
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