才能の欠片もない人生。それでも前に進みたい。
世の中には、才能を持った人間とそうでない人間が居るのはたしかである。
私はこれまでに、中学受験と大学受験を経験し、所謂天才という人達に劣等感を抱き続けていた。
私は世間では凄いと言われる、慶應義塾大学理工学部に通う学生ではあるが、才能はない。
才能があるから慶應理工に行けるんだと思う人も居るだろう。
しかし、慶應理工は才能ではなく、努力で入学したと言わせて頂きたい。
大学受験の本質は暗記である。
これは才能のない人間にとっては必ず知っておくべきことで、実際私は解法の暗記はもちろんのこと、
その解法に至る思考までも暗記することで、限りなく才能に近い思考が出来ていたと思う。
実際、慶應理工の問題であれば問題を読んだ瞬間に脊髄反射で方針を立てることが出来ていた。
というかそうなるような努力をした。
青チャートなどの基礎的な参考書を脊髄反射で解答できるように何度も反復した。
新スタンダード演習をも脊髄反射になるまで反復し、その思考過程は初見の問題に対応できるように少しづつ体系化し、その体系化した知識も暗記して複数の視点を持てるようにした。
このように説明しても、多くの人はこの努力を才能と呼ぶ。
努力が才能。
私からすれば才能のない者が全てを諦めなければいけないのか、というと絶対にそうでは無いと思う。
そして、東大に受かるような人達は、皆才能を持ってるかと言われればそうではない。
むしろ才能で駆け上がってきた人は1割とかその程度だろう。
残りの9割は、中学生や、もっと早ければ小学生からの積み上げで、
最終的な東大合格に結びついている。
高校から始めたにせよ、彼ら彼女らは努力の中で受験勉強に順応し、東大レベルまで引き上げることが出来ている。
今まで勉強をしたことが無い人が、東大を目指すとなれば、まずその努力に大きな壁があることだろう。
しかし、それを才能と言ってしまえば、人生で何も成し遂げることは出来ないのでは無いかという考えに至ったのが私である。
才能とは、凡人が努力したその先に感じる壁であり、努力の前に感じるものでは無い。
大学受験で言えば、暗記力、発想力、処理能力、これらのような才能に関係する能力は努力である程度賄うことは可能である。
しかし、それらは人によって限界値が全く違う。
東大に受かるには、85の能力値が必要だとしよう。
初めから能力値が100を超えているような人もいれば、
どんだけ努力を積み重ねようと、80で成長速度が落ちる者もいる。
努力をしても届かない場所。
その時に初めて「自分には能力がない」のだと自覚すればいい。
しかし稀に能力値の限界を突破することがある。
それは、努力を諦めなかった時である。
人間、いつ才能が開花するかなんて分からないなんて言葉もあるが、私は才能は開花させるものではなく、生まれた時点で決まっているものだと思う。
しかし、後天的に身につけることが出来る能力、
それが天才たちと戦う唯一の手段であるのならば、
私は死ぬ気で取りに行く。
高校3年間の受験で酷く痛感した。
過去の私は東大を諦めた。
恐らく人生でこの思いが消えることは無いだろう。
周りの才能に圧倒され、それでも6点差にまで迫っていたこと。
もう一度受験しなかったのは、才能とは別の自分を見つけたいという思いがあった。
私の中で東大受験の諦めは、才能に縋って生きることの断絶でもある。
もしかしたらこれから大学受験を控える方も居るだろう。
しかし、これだけは抑えておいて欲しい。
ほんっっとうに死ぬ気で努力をして倒せなかった相手こそが才能である。
努力をする前に諦めることは、才能に負けたのではなく、自分に負けたのだと。
大学受験を通して、自分に負けるな。
私は、大学受験の敗者ではあるが、自分にだけは死ぬ気で食らいついてきた。
これからも自分には負けないし、ここまで言ってきて申し訳ないが、
才能は強い。
私は負けた。
そして、自分に負けないという、恐らくこれから先の人生を創る教訓を体得した。
では。