無駄な動きを巡るカルチャーショック
私は建設業に就いているのだが、うちの会社にはいつも無駄な動きをするOさんという人がいる。
落ち着きがなく忙しない人で、動かさなくていいものを移動させ、やっぱり元に戻したり、いつもせかせか何かしては空回りしており、見ていて腹が立つ。
四人で順番に猫を押していた際も、ロケット鉛筆式に自分のターンがくるため、走る必要が一切ないのに、Oさんはせっせと息を切らして猫を押していた。走るもんだから土をボロボロこぼす。土をボロボロこぼすもんだから後から掃除が大変になる。悪循環で腹が立つ。
そんなOさんはランマというそこそこ重い機械を一人で運ぼうと苦戦していた。馬鹿だなーと思い、台車を持って行き「Oさん、これ使った方がいいですよ」と言うと、「大丈夫」と返され、時間と体力を浪費しながら頑張って運んでいた。
ようやく運び終えた時、彼はなぜか楽しげな表情を浮かべて、こう呟いたのだ。
「よしっ!無駄な動きしたぁ!」
一瞬聞き間違えかと思ったが、ハッキリとこう言った。それも満足そうな顔をして。
私は25年間生きてきて、無駄な動きというのはよくないもので、極力したくないものだと思っていた。しかし、彼は積極的な態度で好んで無駄な動きをしていたのだ。
自分が当たり前だと思っていた常識が揺らぐ出来事だった。
それから自分の中で正しいと思い込んでいるものを見つめ直したり、嬉しいことと嫌なことがさかさまの世界だったらとか、ついには各国間の考えの違いや対立、宗教について考えるに至った。
まだまだ、というかきっといつになっても偏見に縛られていることを再認識し、もっと丁寧になろうと思った。
“幸せ”というのは個人的なもので、一般化できるものではない。本人が満足していればそれはどんな形であれ幸せなのだろう。