引っ越しました

2022年2月、家を借りた。

”遊べる軽”こと我が愛車で実家からチェストや厳選した本や照明なんかを運んできたのだが、新居前の道路が膝より10cmほど上のあたりまで雪が積もっていた。車庫に入れるにしても、雪かきをしないことには入れることができないので、車庫前から通りまでの区間をせっせと雪かきをした。

30分くらいかけてようやく通りまで連絡することができて、よし車を入れよう!と思ったら最初に雪かきしたところが元に戻っていた。「ふりだしにもどる」って書いてあった。

小学生の頃はふりだしに戻っても、なにくそスピリッツで七転八起してみせたものだが、25歳にもなると一度ふりだしに戻ればゲームから降りるという冷静沈着かつ賢明な判断をすることができた。人生ゲーム25歳。

新居の一本となりの通りにはラーメン屋やスナックや居酒屋なんかがあって、異種の方々が雪という共通の敵を持つことで微笑ましく共闘していた。外見でわかる交わることのなかった人たちも共通の敵を持つことで、昔ながらの友人ばりに友情や信頼を獲得し得ること、世界や国のそれとなにか似てる。

人と人が仲良くなるための話題について、昔にテレビでやっていたのだが、好きなものの話をするよりも嫌いなものの話をした方が盛り上がるそうだ。

是非は知らないが、共通の好きなものよりも共通の嫌いなものの話の方が何を言うにしても相手の地雷を踏むリスクが少なく差し障りないってことなんだろう。

まあ、だとしても私は人とは嫌いなものよりも好きなものや美しいと感じるものの話がしたいものだ。


ここ最近は強烈な感動を覚えることが少なくなった気がする。初めて鴨居玲の絵を見た時のような、初めてホドロフスキーの映画を見た時のような、なすすべもなくただ涙を流していたあの頃の脳天から稲妻を食らったような衝撃や刺激が少なくなった。

芸術ってのは見てるうちに悪い意味で慣れていき新鮮さが失われていくのかもしれない。

先日、冬の朝、豊平川の堤防沿いを走っていた時、東から真っ赤な朝日が差していた。

朝日ってのは何回見ても新鮮な感動を覚えるなあと思った。立ち尽くすしかないようなあの感覚に似ていた。

先日、満月の夜、日は落ちているのに空は明るく、まんまるのお月様が空に浮かんでた。恍惚として見惚れてしまった。

きっと、創作物には限界があって、人間の感性を通して作られたものってのは二次的なもので、源泉となるのは宇宙や自然の美しさなんだと思う。

宇宙の美しさと数十億年もの人類史と地球史がバックグラウンドにあるのだと思う。

もっともっと感動しながら生きていきたい。芸術にもっと積極的でありたい。もっともっと生きている実感が欲しい。

そんなテーマで部屋づくりをしていく所存であります。

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