四季オリオリの実
札幌は頭おかしいくらいの大雪で、30分の道を1時間半かけて出勤してきた。今年は雪が遅くてようやく追いついたなって感じだけれど、今年も今年とて雪には困ったもんだ。
こんだけ技術が進歩してもちっとも変わらないものってたくさんあるけれど、除雪ってのもまたいまだにアナログだな。
JRは雪で止まるし、毎年同じところで事故は起きるし、ラーメン屋はだいたい現金払いだし、タクシーは邪魔だし、バスは曲がるの遅いし、前の車はブレーキ踏むの遅いし。
途中からアナログ関係なくなっちゃってる。とかいうハライチ風の茶番はよしとして、こないだのM-1面白かったな。
M-1が終わるといよいよ今年も終わりかって感じがしてくる。小学生の頃はこの時期になるとテレビ欄を取り憑かれたように見てた。見たい番組は蛍光ペンで囲い、かぶってる番組は母に録画してもらってた。
大晦日の、「おおみそかだよドラえもん」が楽しみだったはずが、いつしかガキ使が楽しみになり、気づけば夜勤しながら年を越すようになった。
変わらないものの良さもあるけど、変わっていくものの良さもあるなって思う。変化することは生きているってことだから。
生活も趣味趣向も、心にしても。
“感動”ってのは文字通り感情が動くこと。動くことってのは変化するってこと。感動するってのは生きているってこと。なのかもしれないね。
変化のない生活ってのは機械的に時間が過ぎていく。機械的に過ごすのは「も”っだいないっ!!!!」
機械と人間が決定的に違うところは、人間には感じる心があるところだ。生きてればたまらなく辛いこともあるけれど、感情が揺れるのは生きているってことだ。
人造悪魔の実SMILEには悲しむことも怒ることもできなくなり、死ぬまで笑うことしかできなくなるという副作用がある。
親の死に目に遭っても笑うことしかできないなんてそんな不気味で残酷なことはない。
きっと、悲しんだり怒ったりもできるから、人はたくましく豊かに生きていけるのだと思う。
四季折々の風土の中で過ごして来た日本人は四季折々の風景や風に豊かな情趣を感じる感性を持っている。日本人は四季オリオリの実の能力者なのかもしれない。(?)
海軍にオリオリの実の能力者ヒナというキャラクターがいるが、世の中の男子がヒナにロックされいろいろな意味で感じさせて欲しいと思うのも美しい感性なのかもしれない。(?)
慣れるという言葉があるが、この言葉もポジティブな意味合いで使われることが多いな。慣れることは変化がなくなっていくことで、それは感情が動かなくなり機械に近づいていくこと。機械は生きてはいないが死んでいるわけでもない。生きながら死んでいるようなものだ。
人は良くも悪くもたいていのことは繰り返すうちに慣れる生き物だ。
『夜と霧』(V.E.フランクル著)ではナチス下で強制収容所に収容されたユダヤ人の精神分析が記されている。
目の前で友人が撃ち殺されるのを見て発狂し泣き叫んでいた人も、それが日常的に行われ続けると何も反応しなくなったそうだ。
社内の人間関係や訳の分からない風習においても、初めは持っていた反発した気持ちが、いつしか消え去り、ヘタすると知らぬ間に支持する側になっていたりもする。
慣れるってのは恐ろしいもので、知らぬ間に起きる。少しずつ確実に心は擦り減っていく。
嫌なことやしたくもないことを続けていると本当にそういう人間になってしまいそうで怖いなと思う。
自分がそんな泥沼に片足突っ込んでいると気づいた時にはサンジのこの言葉を思い出したい。
「人は心だろうが!!!!」
先日、某芸能人が自ら命をたち亡くなられたが、技術が発達しても自殺はなくならないどころか増える一方だし、技術が発達してもなお自殺は首吊りか飛び降りが多いなあと思う。
話は逸れるが、ワノ国編にてゾロが煉獄鬼斬りでキラーを斬るシーンがたまらなくかっこいいので是非見てくれ。
これを見ずに死ぬのはもっだいない
消せない地獄なら考える時間を減らすしか苦しみを軽くする手段はないのだから、些細なことでいい、こんなことが意外と救いになったりもして。