脱不寛容

なんだか気づけば25歳になっていた。とりわけ劇的なこともなく加速していく日々を、とりわけ劇的な文才も持ち合わせていない私が、徒然なるまま雑に書き殴るブログ。をここに開設致す。

書きたいことがある、というよりも、あんまり退屈なもんだからとりあえず何か書きたい、という気持ちから書き始めた次第。変哲のない日々の中で、何気ないことを考えていると、いつしか肥大し何気なくなくなっていて、そうして心が浮いたり沈んだりするけれど、吐き口がないと息が詰まる。自分が吐き出してすっきりするため、そして、読んでくれる人を道連れにするため、独り言のように(実際に独り言になる可能性も高いが)つらつらと書き綴っていく。

書くことは声を出すこと。声を出すってのは肺から空気を出さないとできないこと。書くことってのは文字通り息抜きってこと。なのかもしれないね。

さっそくしょうもない話なんだけどさ、今朝見た夢の話。割とそういう人いると思うんだけど、私は夢をメモする癖があって、今朝もまたわけの分からん夢を支離滅裂に書き残していた。

夢ってのは自分が見てるもんだけど、自分の中の別人格というか、自分が思ってもないような、思いつきもしないような発想や景色を見せてくれたりする。

自分の中で発生しているのに、自分から乖離した次元から発生しているというのが、妙な矛盾を孕んでいてたまらなく不思議だ。

内容は、
「女性に年齢を聞くというのは失礼なこととされているが、みんなは何がどう悪いのか分からずにそれを失礼なこととして過ごしてる」
というもの。

年齢を訊くことが失礼な行為かどうかは正直どうでもいい。それが当たり前の事実として認識されていることが問題なのである。

人が老いるというのは100%自明の事実であり、もっと言えば人が死ぬこともまた100%の事実である。老いることは衰え枯れていくことともとれるが、老いることは学習しあらゆることに気づき知っていくことでもある。

どんなことも多面的であるのに、たいていその一面だけを見て平面的に判断されている。

みんなで同じ考えを共有する、というのは”一致団結”とかいう四字熟語があるくらいだしポジティブな意味合いを持っているのだと思う。

一致団結という言葉をいくつかの国語辞典で調べてみたが、どの辞書もポジティブな例文しか載っていなかった。

ただ、あまりにもみんなが同じ考えを信仰しすぎると、異質なものを排除することに繋がりかねない。

そういう点で、何かをみんなで信仰することや人に合わせることは危険だったりする。まあそんなことをいちいち辞書に載せろとは思わないが、安易に固定観念に縛られることが怖いことだと意識して過ごせば、少しだけやさしくなれる。

ある程度おおざっぱでテキトーなくらいが丁度いいんじゃあないかな。

こうしなければならない、とかこういうもんだってのをゴリゴリに押し付けられるのは、また押し付ける方もお互いストレスじゃないか。

自分の中でこうするのが正しいと信じていること、もちろんそれが間違っていると否定するわけではないが、誰しもがそうであると思い込むことは自分と違った考えの人に腹が立ったり、立場を利用して強要したりしてしまいがちで、そんなのは誉められたもんじゃない。閉鎖的な脳みそじゃ心も腐っていく。意地悪な人になってしまう。かもしれない。

世界にはたくさんの国があって、宗教があって、人々はそれぞれ信じているものがある。世界には何十億も人がいるわけで、人の数だけ考え方も好きなものも大切なものもあるわけで、それが自然なことで、みんなちがうところが人の面白いところで美しいところだ。

隣人でさえ意見が食い違うことがあるのに、世界中の人々が同じ考えを持つようなことなんてありえないし、なにより画一化された世界なんてつまらないにも程がある。

衝突するのは仕方がないことだし、それ自体は悪いことではないけれど、やり方を間違えれば悲劇になる。

パワハラであるとかいじめだとか、もっと大袈裟に言えば、戦争だとか。

心に余裕がないと意地悪になってしまう。一歩引いて見てみれば視界も広がり、不寛容の呪いが解け、少しだけやさしくなれるはずだ。

心に余裕がないと知らず知らずの間に自分も泥沼に沈み、気づけば抜け出せなくなってしまう。

先日、Hump Backの大阪城ホールでのライブDVDを見ていた。「生きて行く」という曲の前MCでこう叫んでいた。

「おい!知ってるかー!人はなー!やさしくなるために生きていくんやぞー!」

最高のライブなので、きっとこんなブログ読んでいるということは暇だろうから、是非見てくだされ。フルで見たい人にはDVD貸すよー。

あんま長いと読むのめんどくさくなるから(自分で読み返すのも)終わり!

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