“いじめ”とさかなクン
最近はサイト連載のハードルが下がったおかげでいろんな人が漫画を連載できるようになり、良くも悪くも多くの漫画が読めるようになった。
良いものはバズったりなんかして正当な評価を受けられるようになった。最近はいじめ関連の漫画が多く出てきた印象がある。凄惨ないじめの描写を競い合っている。転生や修行により強力な力を手に入れ、復讐劇を繰り広げるパターンがお決まり。
こういった漫画の面白さも理解できるが、厨二感に呆れることもある。
いじめの経緯が”なんとなく”というものが多く、中には死に至らしめることを神まがいの素晴らしい行為のように描写しているものさえある。
単純に今の”はやり”なんだろうけれど、こういった漫画が支持される社会が悲しい。少なからず共感したり救済される人がいるということだから。
高校数学で「集合と要素」というものがあるが、クラスという集合を構成する要素の中にはいじめられている人、いじめている人、いじめに関与していない人がいる。数学的には、関与していない人もまた“いじめのあるクラス”を構成する要素のひとつである。
全員がクラスの構成員であり、無関係に思えてもいじめの発生しやすいムードを作り出していたりする。
雰囲気や空気は比較が難しいが、実感として楽しげなクラスや退屈そうなクラスはあったはずだ。
いつも楽しげなクラスを作り出すやつ、いつも嫌な空気のクラスを作り出すやつ。
全員が要素であり、たった1人のせいでクラスの空気をぶち壊すこともあるし、たった1人のおかげで明るいクラスになることもある。
いじめは学校に限らず会社やサークルなど、どのコミュニティでもあるものだし、いつまで経ってもなくならない。なくならないなら、なくす努力ではなく、ある前提のベクトルで解決策を考えてみる。
『ミステリと言う勿れ』という漫画で、欧米ではいじめている側が病んでいると判断されカウンセリングを受けさせられるという話があったが、日本ではまだまだそうはなりそうにない。
机上で解決策を提案するのは簡単で、回避すればいい。”精神的な回避”で解決しなければ”物理的な回避”。つまり、”気にしない”ができないなら”逃げる”。
自殺という最悪のシナリオを飾るなら回避の方が明らかに良い。自殺は回避ではないし、自殺は復讐にもならない。自殺なんかしてもいじめっ子はすぐに忘れるし、十字架を背負って生きることなど絶対にない。
いじめっ子といじめられっ子の共通点は両者共にいじめに夢中な点だ。外に目を向ければいくらでも息のできる場所はあるのに、息苦しく退屈な井の中を少しでも快適にしようと努める。頭ん中がいじめでいっぱいいっぱいだから窒息する。
さかなクンは幼い頃から魚が大好きでいつも図鑑を見たり魚の絵を描いていたそうだ。いわゆる”変わった子”で、振り返ればいじめられていたかもしれないらしい。本人はいじめられていた感覚がなく、頭の中は魚でいっぱいだったわけだ。
昔、テレビチャンピオンという番組で、魚に1番詳しい人を決める回があった。漁師や魚屋やら魚のエキスパートたちが凌ぎ合う中で、素人学生の若かりしさかなクンが無双し優勝したのを覚えている。
趣味が高じて海洋大学の教授なったし、絶滅した?と思われていた魚を見つけて天皇に表彰されたり、ちょっとレベチの魚オタクだ。
きっと、勉強ってのは本来こういうもので、好きをきっかけに疑問や興味が広がっていき、派生的に知識を深めていくことで、この過程は本来”楽しいもの”なのだろう。
人それぞれ好きなものが違うところが人の面白くて美しいところだ。ただ、自分の好きを知ることが意外と難しかったりもする。
精神的な回避のファーストステップは自分の好きを知ることで、そのためにはあらゆるものに触れ自分が感じる”もののあはれ”を認識する(知る)こと。
学問に限らずとも良い、学問は結果であり、もののあはれを知ることはきっかけである。
極端な話、引きこもってマスターベーションをすることしか楽しみがないのであればとことん極めればいい。どうすれば気持ち良いのか、なぜこうすれば気持ち良いのか、快楽とはそもそもどういう仕組みなのか、肉体的な快楽と精神的な幸福感の違いとは、そこから前立腺の仕組みの研究や哲学や技術の洗練が始まる。派生的に研究を深めるために毎晩実験を繰り返せばいい。
この記事は派生というか脱線してきたのでここらで終わりにします。最近の面白い漫画についてでも書こうと思っていた一行目のあの頃が懐かしい。
悩みで窒息しそうな人は海に行きましょう。悩んでいる人は海へ連れて行きましょう。海は心をもとの場所へ還してくれるかも。