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迷妄する群れは迷信する鳩
2週間ほど前に社内のCSR部門にパワハラの疑いありと通報した。
きっかけは後輩の辞職。その原因のすべてがパワハラによるものではなかったが、確実に根本的な要因のひとつではあった。類似のケースで辞めていく人間が後を絶たない状況にいい加減うんざりしてしまった。
何人かは本当にボロボロになって辞めていった。そんな状況にあってもなんのアクションも起こさない、起こせない上司や間接部門のスタッフに腹がたってしかたがなくなった。腹いせにやっただけだろう、と言われたらそうであるとも言える。
それは他人が勝手に決めればいいことである。
話を戻すと、僕個人も実際に被害というか、まあ軽い接触事故みたいのは何度かそのパワハラ上司との間にあったが、そんな程度の鬱陶しい上司や人間なんてどこにでもいるし、天災のようなものだと捉えてやり過ごしていた。嵐の時は窓を閉めて家にいるのがいちばんだ。
「パワハラをしてしまう人間が完全に悪いわけではない。彼の認知の偏りに問題があるだけなのだ。人は自分自身の行為とその結果をちゃんと認知することで行動や言動を改善していくことができる」
これは認知行動療法に基づいた想念なんだろうが、そんなごたくは誰だってわかってる。いつだって本当の問題はシンプルだ。今回であればパワハラをした本人への会社からの処遇と、会社としての再発防止対策だろう。
ここで重要になるのが企業内のCSRの役割。CSRは「Corporate Social Responsibility」の頭文字で、正確には「企業の社会的責任」と訳される。概念としてどうしても広義にならざるおえない言葉だと僕は思う。
要約してしまえば企業の【企業倫理】とでも言えるのではないだろうか。それは当然のことながら各企業によって違うのでしょう。ただし、この概念はいったい誰の為のものなのかを考えないといけない。
広義の意味においては社会のためにあるものだろう。もしくは、
「ひいては」社会のためにあると言えるのではないだろうか。
限りない<個人>が織りなす総体が社会である。と仮定して、その意味で語るならばCSRの最も重要な責務とは従業員が安全・健全に働ける労働環境の構築ではないだろうか。結局は社会のなかの企業のなかの数限りない個人が社会を織りなすんだから。
人は環境に染まりやすく、状況に左右されやすい生き物だと僕個人は思っている。なので職場環境や業務手順はその<人>の元々もっている【弱さ】をそもそも織り込んで構築していかないといけない。
設計主がなんでもかんでも<個人の責任>にだけ問題を帰結させてマネジメントシステムを構築してしまうから結局誰も彼もが<個人の責任>なんて果たさなくなってしまう。
そうなるのはこれが不条理なゲームでしかないからだ。そのゲームの絶対的なルールはこうだ。「ルールをつくったやつが得をする」、だから誰も本当の意味において、自分の企業内における、もしくは業務内における責任というものがいったいなんなのかを考える入り口までも辿り着けない。
それはそうだろう。現状の大方の企業の組織図に対するマインドセットは画にすると基本的には以下のようなピラミッド構造だろう。これがそのままヒエラルキー構造になる。それも上層部のマインドセット次第だとは思うが。
階層の上がおざなりにした仕事は結局いくら下にいったところでおざなりのままだ。源泉に毒が含まれている。すると階層構造を下る過程はけっして濾過装置の役割は果たさないんだから(※逆に伝言ゲームのようにどんどん最初の言質から逸れていくのが普通)、むしろ最初の一手で勝負が決まる。そぞぐらいトップのマインドセットは重要だし企業理念は重要だろう。
この問題は簡単ないくつかの言葉で片付けられる。ようはこのシステムが型落ちだっていうことだ。悪い意味で古いということだ。アップデートする必要があるということだ。少なくとも企業にとってはここを考えなくてはいけない時期にきてると僕は思う。
勿論、理想の組織の形は業態にもよるんだろうけど、僕は僕の会社にこうなってほしかったし、こうであると信じてしまっていた。画にすると以下のようなイメージである。それぞれが協調・協力・協同していける仕組みをもった構造。
ここまできてようやく僕の会社の実態がわかってきたように思う。うちは従業員数3万人を超える大規模な企業だ。売上の比率も海外比率8割という完全に(B TO B)の業態である。
だから「全体としては良い企業かもしれないけど細部に様々な問題があるのは仕方ないよね、いろんな人がいるし、会社がひとりひとり見ることなんてできないんだからさ」となる。
それが僕には納得がいかない。
迷信のようであまり好きではない考え方だが、やはり「火のないところに煙はたたない」ということじゃないだろうか。
分母の大きさは何かをしなくていい理由には決してならない。
そういった<困難・苦難・複雑さ>を物事をやる・やらないの前提条件として考慮にいれてしまうから、何も現実が見えなくなるし、見る力も失う。ボブディランはこう言った。
「やらなきゃいけないことをやるだけさ、だから上手くいくんだよ」
それが難しいんですよね。大人には。しがらみがありますからね。
往々にして僕はそれはくだらないものだと思ってます。くだらない、というのはそのしがらみがあなたにとって本当には重要ではない、大切ではない、という意味である。それに気づくには息を止めて潜れるだけ深くまで自分のなかに潜っていく必要がある。
あなたにとって何が大切かはあなたが決めればいい。というかあなたが物事に価値を与えるしかない。これは現象学的な考え方でありニーチェの哲学にも通ずるものであると僕は思っているが、超主観的な視座がなければ客観的に物事を見るなんてことは不可能だからだ。
矛盾して聞こえますかね。でもそうだと僕は思っています。
事象や物事に主観的に価値判断を下せない人間がどうやったら客観的に物事を見れるんでしょうか。そこの思考は相対的なものになってくるから、まずは比較対象として自分の個たるものは持ってないとそもそも比較自体ができないでしょう。
脱線しましたが、もっと言うとくだらないからといってそれを断ち切るのが簡単かというとそれも違う。だから往々にして判断を誤る。同調圧力や様々なバイアスがその誤りに導く。
自分の取る態度や立場は、自分で形成したり自分で獲得しにいかないといけない。だからどうやったらそれを形成できるのか、獲得できるのかを常に考えたほうがいいと僕は思う。
そうしないと、あなたはあなたになれないからだ。
そうしないと、あなたに与えられたあなたの人生を全うできないからだ。
だから必然的に他者との衝突が用意されているんだろう。価値判断において何が許せるかよりも、何を許せないか、のほうがより個人が明確にパーソナライズされていく気がする。
いつだって本当の問題はシンプルだ。
だから<判断・決断・選択>には勇気がいる。
理性と論理が役に立たなくなる局面は、誰にでも必ずやってくる。
最後にNovembersの曲、<こわれる>の歌詞から
「感性が剥がれてく、生活だけが残る」
曲貼っときます⇩
感受性だけじゃなく、感性を解放しよう。