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【考察】不死を考える

はじめに

現在、「ルドベキアの花束」の本編を執筆している。
スピンオフゲームもあるので、簡単に世界を感じてみたい方はぜひこちらを。

この中で《背神の集い》という組織がある。この組織は「倫理よりも知識欲を」をモットーに、マッドな研究をしている。

背神の集いのエンブレム。
智慧の果実に「神」の字が反転している。

この組織のモチーフは、何度か話題に出しているのだが、愛してやまない大塚英志さんの「木嶋日記」の瀬上機関である。

さて「ルドベキアの花束」は宇宙という広大な場所で凡ゆる価値観の中「正義」を巡る物語だ。その中で《背神の集い》は自ら掲げるように神に背く組織である。彼らは研究組織であり、多くの研究室がある。
その中の一つの研究室では「不死」を研究する。不死の研究がなぜマッドなのか? つらつらと考えてみたい。

以下つらつら記述するが、あくまでも私独自の思想であり、そこには強い思想も含まれると思う。物語の一人のキャラクターが何か言ってるなーくらいの別世界の話として読んでもらえれば良いと思う。


不死を考える

そもそも生きるとは

生物の定義自体が確定的ではないけれど、以下を全て満たすものと一般的には云われていると思う。

  • 細胞構造をもつ

  • 代謝を行う

  • 自己増殖・自己複製が可能

  • 遺伝情報を持つ

だが、そんなことはどうでもいい。「自分が自分であること」が「生きる」ということだ。
それってどういうことなのか? 自分が自分であると認識するってどういうことなのか? 眠ったら生きてないのか? 眠ることと死ぬことに違いがあるのか?
意識を失うことは死なのか?

私は、意識を失うことは死と同義であると思っている(この思想を具体化したのがIdiot Savantのネズミちゃんである)。

と、いうことは、私の場合「生きるとは認識である」と定義されるわけだ。
勿論、この定義も上記の「生物の定義」の上に成り立つものだが、まぁいいじゃない。ゆるく読んでください。

生物とは情報なのか?

自分が自分たり得るのは「記憶」だと思っている。
だからその記憶をマルっとどこかにコピーしたら、私という人間は複製されると思う。それを実現しているのが「幻夜 - ドウラチオの暴虐 - 」の白烏光子さんだ。

この思想は、多分「情報を転送して転送元の生物を殺すテレポーテーション」のアイデアに起因すると思う。
概要としては以下

  • 転送元と転送先に入れ物がある。例えば、転送元が「自分が認知している自分」で、転送先は「転送元から作られた自分」である。

  • 転送先に転送元の記憶やらなんやらを転送する。物質ではなく情報を送る。個人的には脳に保存された情報ってイメージ。

  • 転送完了したら転送元を殺す。

聞いたことがある人はわかると思うが、「自分が認知している自分」は殺される。これってどうなの? 自分はやっぱり死ぬのでは? って思うと思う。
だが、それってやっぱり記憶が残っているからなのでは?
コピーではなく切り取り転送ならいいのでは? というマッドな考えが浮かぶ。

そんな思想を持った人がこの「ルドベキアの花束」には存在していて、「体が朽ちたら情報を吸い出し、新しい体に入れ込む」ことにより、「何億年も生きている」という人がいる。

一方、「ルドベキアの花束」にはキーパーソン(パーソン?)となる〈十二進〉と云うクローンたちが存在する。
彼らは宇宙の警察のような組織《煉獄》に恒常的に優秀な人材を確保するために作られた11人のクローンで、死ぬ時にその「経験」を抽出され、新しいクローンにその「経験」を注入する。
彼らは個を持たない生物のパーツでしかない。彼らの「記憶」が受け継がれていないのが「不死」とは違うところなのだ。
彼らは「そういう生物」なので、道具として生きることに疑問を持たないという設定だ。
だが、彼らは「死に疑問を抱かない」。それはやはり「次の自分に経験が受け継がれる」ということから、自分は継続されると思っているのかも知れない。

この体こそが「生命」だ!

とはいえ、だ。
やっぱり体があって思考(情報)があるのは確かだと思う。この体のまま生きられるのがベストだろう。
この体って、維持できるのか?

そもそも生物の死はなぜ起こるのか?
それはテロメアが短くなること(細胞分裂に限界がある)、細胞が劣化すること、つまり老化現象こそが死である(当然もっと複雑なメカニズムだが、色々割愛)。
つまり不死の実現は「不老」不死なのだ。

さて、SFの世界の世界のお話。
人間は、所詮細胞の集まりだ。
細胞は分子や元素の集まりだ。
分子や元素は原子の集まりだ。
原子は陽子と中性子と電子の集まりだ。
陽子と中性子と電子はクォークとレプトンの集まりだ。

ってことは、人間はクォークとレプトンでできている。
そしたら、なんかテロメアの操作ってできそうじゃない?

物理学の授業の時、私はいつもこんなことを考えていた。

と、いうことで(?)、テロメアの操作ができるとしよう。
でも、さらに問題がある。
細胞分裂の時、DNAのコピーに失敗するのだ。このコピーの失敗は私たちの体の中では恒常的に起こっていて、失敗した細胞は細胞死(アポトーシス)したり、正常な細胞に殺されたりする。
稀に、失敗したのに細胞死しないやつとか、正常な細胞に殺されなかったやつがいて、それがいわゆる「がん」というやつだ(色々端折ってるけど)。

これを防ぐために、SFの世界観的に「体内にナノマシンを注入してコピーに失敗した細胞を修復または殺す」ようにすれば、なんかいけそうじゃない?

と言うことで、「テロメアの短縮を操作しかつナノマシンで修復し不老不死を実現する」と言う研究結果になりました。
勿論、何がマッドってこの結論に至るまでにきっとたくさんの生き物を犠牲にしてきたのでしょう。人間も。

そもそもなぜ死ぬのか?

というか、なぜ我々は死を怖がるのか。
死を怖がる生物は少ない。人間って稀有な生き物なのだ。

生物は「死ぬべきだ」。

私は私と言う「個」であるが「人類」というものの一部にすぎないと思っている。
人類の観点からしたら、個は繁殖して入れ替わり、環境に適応し絶滅しないようにするためのシステムの一部なのだ。

種は環境適応のために進化する。
それって、個たる私たちが毎日細胞を捨てているのと似てない? ってずっと思っている。

進化に特化した種が昆虫であり、そう言う選択をした昆虫が私は好きだ(また話ズレる)。

生物は死に、循環し、発展する。死ぬことはシステムの一部。それなのに、我々は死を怖がる。
それはなぜか。
聞いた話だと、老いて死が近くなると死が怖く無くなるらしい。認知症はもしかしたら死の恐怖から解き放たれるための機能の一つなのかも知れない。
老いたら思考がぼんやりとするのもそうなのかも知れない。

死が怖いと言うのは、種として個が生きている価値がある、と言うことなのかも知れない。

不死が実現したら次の問題

で、だ。
「ルドベキアの花束」では情報を受け継いで「不死」って言ったり体そのものを維持する方法が確立されていたり、そもそも不死の人種が存在したりしている。

さらに言えば、例えば地球が爆発しようが宇宙ステーションとかに逃げて生きながらえることができる。
地球よりも。
太陽よりも。
銀河系よりも。
この宇宙よりも。
それより長く生きるってどうなんだろうか。

もし、「不死=死ねない」だったら?
宇宙が滅んでも死ねなかったら?

SFっぽくなってきましたね!?

ビッグ・リップ、ビッグ・クランチ、ビッグ・フリーズ、真空崩壊…宇宙の終焉にはさまざまな理論がある。
この宇宙がこの宇宙を保っていられる保証はどこにもない。
それでも、生きていたいのか。
そうなったら死にたいと思うのか。

じゃあ、この宇宙がこの宇宙を保っていられなかったら、別の宇宙に行けばいいじゃない!

「ルドベキアの花束」の宇宙は膜(ブレーン)だ。ブレーン宇宙論が真実である世界だ。
我々はこの宇宙に閉じ込められている。なぜならば、我々を形作る素粒子はひもでできており、そのひもは宇宙にくっついている(開いたひも)だからだ。
だが、重力子だけは閉じたひもでできており、宇宙間を移動できる。
じゃあ…
我々の、体も。
全てが、閉じたひもで構成することができれば…この宇宙から別の宇宙に行くことができるのではないか?

そうしたら、この宇宙と似ている宇宙を探して、その宇宙で生命体を探して…。
途方もない。それでも生きたいのか。
「ルドベキアの花束」では多くのキャラクターが登場する。
みんな、一体どんな思想でどんな選択をするのだろうか。

おわりに

そんなわけで、「ルドベキアの花束」の世界を理解しようと自分の頭の中を抽出してみました。
でもやっぱり思考はとっ散らかりますねぇ。

生物や宇宙を考えるのは楽しいです。

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