四季-移ろいゆく季節の中の変わらぬ狂愛- 第2話
第2話 夏〈狂愛の果て〉
今の自分が幸せかどうかと問うたら、ぼくは否と答えるだろう。けれどもきっと、きっとぼくは不幸でもない。ただ平坦な道を、ぼくは歩いている。
ぼくの日常には何もない。そこそこ裕福だった家の、遺産と資産を食いつぶしながらぼくは生きている。
それが良いか悪いかと比べるのだったら当然後者に決まっている。
ぼくは――。
――。
ぼくは目の前にある壁を眺める。壁には異国の言葉で罵りの言葉が羅列されていた。それをグラフィティ・アートと呼ぶのか迷惑で汚い落書きと見るのかは至極どうでもよい。
ぼくは辺りを見回す。
壁以外には何もない。何もない壁の前でぼくは隣に居る彼女を見る事もなく、彼女に言う。
――。
何を言ったのかは自分でも解らない。ただ、それは贖罪でありまた彼女にすべてを許して貰いたかったから言ったことは確かだ。
すべてを許して欲しい――。そう思う前に、彼女はすべてを許す。
――わたしは貴方に何も望まない。
望んではいけないのだ、と彼女は繰り返した。
彼女は至極潔癖な人だった。一定以上、誰かを己の領域の中に入れたくないと願うのだった。
だからぼくも彼女に対して近寄ることはしない。勿論それは物理的な距離ではない。
物理的な距離で言うなら、ぼくはそこそこ彼女に近寄っている。手くらい繋ぐ。けれども、笑顔でぼくと喋るけれども、彼女はやはり一定以上近づけないように振る舞っている。
彼女はぼくの全てを許した。全てを。簡単な失敗から重大な出来事まで。何から何まで。それはいっそ、ぼくに興味が無いのではないかと言うほど。
然し、問うと彼女は言う。
――愛しているわ。最上に。
そして嘘の充満した素敵過ぎる笑みで笑うのだった。
ぼくも彼女をこの世界で存命する何よりも誰よりも彼女を愛していた。誓ってぼくは彼女を最上に愛していた。
その愛を、彼女は重く感じることはなかったようだ。彼女はただ、嘘ばかりの素敵な笑顔でぼくを許すのだった。
彼女があまりにもぼくの全てを許し続けるので、ぼくは彼女に良くない態度を取ったことも何度となくあった。けれどやはり彼女は言う。
――そう云うことも、あるわ。
そうやって全てを許すのだ。
何故全てを許すのか。ぼくは彼女に問うた事がある。
彼女はこう、答えた。
――貴方を愛しているからよ。
――貴方がわたしの前からいなくならないように。
――貴方が全てだから。
――貴方に嫌われたくないから。
答えは意外にも彼女からの重すぎる愛だった。つまりぼくたちは互いに重い愛に溺れていたのだ。かと言って、表面上その愛の重さは解らなかった。それは彼女もそうなのかも知れない。
ぼくらは互いに愛情を表に出すことはなかった。相変わらず彼女はぼくを許し続け、ぼくは彼女を愛し続けた。
彼女は不意に、ぼくの隣まで歩いてきてぼくの手を握った。ぼくは思わず、手を振りほどいた。
そこで彼女を初めて見る。彼女の青白いとも言える肌。綺麗な黒髪。
ぼくは彼女の全てが好きだった。
視界に入った彼女が愛しくて堪らない。
でも彼女はあまりにもぼくを許しすぎた。だからぼくは彼女が一体何なら許さないのだろうと思ってしまったのだ。
だから。
――ぼくは君を殺した。
すると、彼女は相変わらずの嘘の蔓延した笑みで、笑った。
彼女はまた、それでもぼくを許したのだ。
ぼくは、だから。
最愛の彼女が居なくなった世界で生きなければならなくなったのだ。
「おはよう!」
ぼくが眼を開けると、ブラウンの髪を携えた女の子が笑った。
吃驚する程嘘のない笑み。
洗濯物が入った籠を抱えている。
「おはよう! 凄く、いい天気だよ! お庭の芝生も元気だよ!」
彼女がきっと一番元気だな、とぼくは思いながら上半身を起こした。
ぼくの寝室からベランダに出た彼女は既に洗濯物を干す作業に取り掛かっている。ぼくの洗濯物と彼女の洗濯物。二人分だ。
彼女とぼくは全くの他人だが、共通の罪悪感を共有していた。
彼女もまた、愛しい恋人を殺したのだ。それ以上は知らない。
ぼくらは互いの事を全くと言って良いほど、知らない。その証拠にぼくらは互いの正式名称――本名を知らない。
ぼくは形式的に彼女をアキと呼び、彼女はぼくをナツと呼んだ。
何故ならぼくは秋が好きではないからだ。嫌いでもない。至極どうでも良いと思える季節で、激しく気温に上下がある夏と冬に埋もれて仕舞うような季節だ。それ故の呼称となる。
一方、彼女がぼくをナツと呼称するのは夏が嫌いだからだと言う。暑くてだるくて、汗をかき、嫌な臭いの充満する季節だと称す。
表には出さないが、確かに彼女にとってぼくは大嫌いで目障りな存在だろう。ぼくが生き続ける限り、彼女は恋人を殺した事実を突きつけられ続けなければならないのだから。
彼女は、ある時言った。
『せっかくだから、ネコを二匹飼って、ハルとフユって、名前付けようよ!』
そんな訳で、この家には同居人として猫が二匹いる。
どちらも雑種で、そこら辺の野良猫を捕まえて去勢やら予防注射やらをしただけの猫だ。
黒猫と白猫で、黒猫の方をハルと言い、白猫の方をフユと言う。どちらをどちらの名前にするかと言う話だが、当然白猫の方をフユと名付ける。適当だ。
ハルはぼくにそれなりに懐き、本を好む。人語を解す訳ではないと思うが、ぼくが本を読んでいると近くにくるので、最近はよく読み聞かせをしている。
ぼくが本を読み始めるといつも膝の上に乗ってくる。日向で読む事が多いからぼくの膝の上でひなたぼっこと洒落込んでいるだけなのかも知れない。
然しにして、どうもよくそれが続くので一時期夏目漱石氏の『我が輩は猫である』を読み聞かせてみた事がある。どうやらお気に召したようであり、彼は結局最初から最後までその本を聞いた。
猫が猫の話を聞いた所で互いに理解できるはずもない。唯の酔狂であるのだが、まぁいい。ぼくは暇なのだから。
ぼくはいつも彼女を想う。生きていたら彼女は何と云うのだろうか。それをぼくは常に考える。自分の取る一挙一動に関して全て考える。
ぼくはとても彼女が好きだったのだ。今でも愛しているし大好きだし、彼女以上の生物をぼくは知らない。
彼女のことを考える。
彼女はぼくを見て微笑んだ。白昼夢と云いたいなら云えばいい。ぼくは彼女の幻覚を常に見る。彼女のことを常に思っているからだろう。ぼくはぼくの為に彼女を殺した。その殺したための罰が、ぼくが彼女の居ない世界で生きなければならなくなったことなのだ。
彼女はぼくを許した。殺されても許したのだ。彼女がどれだけぼくのことを好きだったか。死ぬよりもぼくに嫌われることが嫌だったのだ、彼女は。
それを想うと、ぼくは更に彼女を愛しく思うのだ。
愛している。
「ナツ! ご飯も出来てるよ! 起きてきてっ」
朝の日差しが眩しいので目も覚める。ぼくはぼくの傍らに丸くなっている猫のハルに当たらないように、そっとベッドから降りた。
ぼくとアキが住んでいるのは住宅街。その一つの家を借りて住んでいる。二階建ての家で、まぁまぁ綺麗だ。新築ではなかったから至極安かった。親の遺産から簡単にひねり出せる値段だ。
生活の一切の負担はぼくが行っていた。その代わりに全ての面倒なことはアキがやっていた。掃除・洗濯・料理。これらに関してぼくは一切何もやらずに済んでいる。これに対して金を出すくらいは簡単だ。ぼくは何もしないのだから。
質素に暮らしているので大した金はかからない。これなら十年以上、このまま過ごすだけの金がある。感謝しなければならないが、まさか子孫が犯罪を起こして働かずに居て齷齪働いた金を消費しているとは思わないだろう。
ぼくはアキに簡単に返事をして、パジャマのまま一階へ降りて行った。
そのぼくの後ろを、いつのまにか起きたハルが付いてきていた。
猫と云うものは人間に懐かないと聞くが、ハルは比較的ぼくに懐いている。可愛くて仕方がないのだが、いやに賢く感じて恐いものもある。猫は妖怪に転じると云われるように、個体によって非常に賢い猫がいる。代わりに、平均して頭の良い犬は妖怪に転じると云われることがない。 個体による差異が余りないのだろう。
そう云う観点で見ると、ハルは優秀である気がする。
以前本の読み聞かせを行った時も同様に思ったが、ハルはテレビも好きだ。一日中テレビを付けていれば一日中リヴィングに居る。不可思議な猫だ。
階下へ降り、ダイニングのテーヴルを見ると全くアキの好みの朝食が並んでいた。テンプレートの様な、洋食の朝ご飯と云われたらこれであると云うような、そんなメニュウ。
トーストに目玉焼き。目玉焼きの傍らにはベーコンが添えてある。そしてサラダ。
ドレッシングにはシーザー・ドレッシングとサウザンド・ドレッシングが瓶で置いてあり、トースト用にイチゴ・ジャムとバターとオレンジ・マーマレードが置かれている。
欧米風であればベーコンはカチカチになるほど熱するのが一般的らしいが、矢張り日本人であるぼくやアキの口には合わないらしい。ベーコンは柔らかい。
朝――と云っても九時だが――の日差しが照らす、美しい日常。この日常の中に彼女は居ない。
ぼくはぼくの指定席となった場所に座り、そこから見える小さなぼく達の庭を見る。青々と茂った雑草たちはアキの手入れのお陰で醜くない。雑草であるのに綺麗に思えるほどだ。
ぼくはそのままアキを待ちながら、彼女のことを想う。
愛する彼女は真っ白い肌に真っ白い髪を持っていた。アルビノなのかい、と聞くと、それなら良かったのにね、と応えた。
嘘でしかない笑みをぼくに与え、愛情しかない純粋で真っ白な愛情をぼくに与え続けた。ぼくは相手が可笑しくなるのではないかと思うほどの愛情を同じ様に彼女に与え続け、彼女はそれを受取り続けた。ぼくと彼女の違いは、見える愛情と見えない愛情の差しかない。
ぼくは彼女に愛していると云い、彼女に多くのプレゼントを渡し、彼女を大切にした。
一方彼女はぼくに対して何も云わず、プレゼントも必要最低限のものをぼくに渡した。そして友人でしかあり得ないようにぼくに接した。それはぼくに興味がないのではないかと云うほどに。
然し矢張り彼女はぼくを愛していたのだ。
ぼくが彼女を殺しても、許すほどに。
後悔などしていない。けれどぼくは彼女から罰を受け続けている。この世界に彼女が居なくなってから、ぼくは生きている意味が解らないのだ。
だからぼくはアキと共に過ごしていると云ってもいい。
アキも愛しい人間を殺した殺人鬼だ。殺人鬼と殺人鬼。矢張り自分が殺人鬼であっても、死ぬのは怖い。そして一度人間を殺したことのある人間と共に過ごすのは、過度のストレスが掛かる。
然し。
だから。
だからぼくはアキがいつかぼくを殺してくれるのではないかと思っている。例えばこの食事にあの毒を混ぜて。
麗らかな春のある日、ぼくとアキは行きつけの喫茶店へ赴いた。アキはそこをカフェと呼んでいるが、ぼくは喫茶店と呼んでいる。000と表記された其処は余り普通の人間が行くような所ではない。
殺人鬼や情報屋、探偵など裏社会に存在するような人間がぽっと顔を出すような場所なのだ。だから其処へ行ってもぼくらは余り違和感がない。
そこで、アキはペンダントを忘れた。
いつでも死ねるようにと持ち歩く毒が入っているペンダントだ。
その毒は、ひどく魅力的だ。
パンを口にしながら、アキを見る。
アキは毎日を楽しそうに生きているーーように見える。
ぼくと一緒に過ごしていて、怖いはずだろうに。
人を殺すと云うことは、勿論法律で禁止されているから行ってはならない所業だ。
だが、それ以外にも、もしかしたらそれ故、心にも何かしらのストッパーがあると思う。
それを、ぼくらは一度外してしまったのだ。
だから、次に殺人を犯すことにためらいがない可能性が高い。
ぼくも、アキも、お互いがお互いを殺せるのだ。
ぼくは、死にたくない。でも、死んだ方がいいんじゃないかと思うこともある。
ぼくは、ぼくが殺したあの日を回想する。
ある時、ぼくは彼女に尋ねた。
「なぜ、キミはぼくを許すの? いや、違うな。なぜ、キミはぼくを許せるの?」
彼女は、やはり嘘だらけの笑みをぼくに向ける。
「貴方が、大好きで、失いたくないからよ」
「それは解ってるよ」
「…うぅん。解ってないわ」
その時、ぼくは彼女を殺そうと思っていた。
彼女は、解っていたと思う。
ぼくが、彼女を、殺そうとしていることを。
だから彼女は、初めてぼくに真実を述べたのだ。
「私は、失うことがとても怖いの」
「それは、誰でもそうじゃないか?」
違うことは、解っていた。
それを彼女も解っている。
だからまた、嘘の笑顔をぼくに向けた。
「恐怖症のようなものよ。私は、貴方を失うことがとても怖いの。貴方がいない世界なんて考えられないの」
「もし、ぼくがいなくなったら?」
「その”もし”は存在しないのよ」
「それって、ぼくと別れたらキミが死ぬっていう脅しかい?」
「違うわ」
解っている癖に、とでも云いたげに、彼女は嘘の笑みを浮かべる。
「この世界は、嘘なの。全てが」
そこで展開される世界観が、ぼくは好きだった。
「失うことが怖いなら、手に入れなければいいの。でもね、私は貴方を好きになってしまった。手に入れてしまった。だから、この世界は嘘でなければならないの。真実かどうかではなく、私が嘘だと思っていることが大切なの。この世界は嘘だから、なんでも許せるの。だって、嘘なんだから。本当は、私は何も手に入れていない。だから、ないものだから、嘘だから、許せるの」
彼女は、ぼくと恋人であることを嘘だと認識している。
だから、ぼくが何をしても許すのだ。
それだけではない。この世界が嘘だと思っているから、彼女は全てを許すことができるのだ。
でもーー。
でも、その世界を認識している自分自身を殺すことは、許されないだろう。
ーーだろう?
そうして、ぼくは、彼女の世界を壊しても許されるのか、試したかった。
そう。
許されると云うことは、ぼくは彼女の中で嘘でしかない。
だから、許されないことで、ぼくは本当に彼女と恋人になれるんだ。
ぼくは、彼女の指を切断した。
それでも、彼女はぼくを許した。
ぼくは、彼女の腕を切断した。
それでも、彼女は、ぼくを許した。
ぼくは、彼女の足を切断した。
それでも、彼女は、ぼくを許した。
ぼくは、彼女の腹を刺した。
それでも、彼女は、ぼくを許した。
ぼくは、彼女の心臓を手に取った。
多分、彼女は、ぼく許した。
ぼくは、彼女と恋人にはなれなかった。
「ご飯食べ終わったら片付けておいてもらえるかな? 洗い物は後でやるから。ごめんね!」
回想に耽るぼくに、アキはそう云って自室へと消えていった。
ぼくは、あの時を思い出しながら咀嚼を繰り返す。
ただ栄養を摂取するその行為を完了させて、食器をシンクへと運び、そしてまたいつものように縁側で本を読む。
あの時のことを思い出して、ぼくはいつもポケットにしまっているナイフを出して、その切先を見た。
このナイフは、彼女を切り落としたナイフだ。
このナイフは、ぼくの罪の証だ。
愛しの彼女を切り落としたことを思い出しながら、愛しの本を切る。
端っこを切り落としたり。
真ん中に様々な穴を開けたり。
ページを切り落としたり。
ひとしきり、満足するまで本を切り刻み、そして空を見る。
心が落ち着く。
そうして、いつものように、ハルがやってくる。
今日は江戸川乱歩を読んでいる。
ハルに読み聞かせてやろう。
それにしてもーー。
夏は確かに暑くて、嫌な季節だ。
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