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『空飛ぶたまごと異世界ピアノオルガン♬アンサンブル』 第35話 ただあなたの笑顔のために(最終話)
わたしたちの世界は、いつも音楽に包まれている。
わたしが生まれてから見続けてきた「わたしの世界」では、常に音楽の中心にピアノがあった。
兄という稀有の才能が咲かせる、澄んだ音符の花束。可愛らしい花たちはいつもわたしを喜ばせてくれるけれど、その養分には兄の苦悩や涙も含まれているのだと、後になって知った。
温玉ちゃんが、わたしたちの世界を広げてくれた。
知らなかった楽器。出逢えた人たち。新しく生まれ出る、たくさんの音の波。
音符や休符の数だけ、人々の想いが、物語がある。曲を書く人、奏でる人、聴く人の人生が交差し、親和してまた新たなハーモニーへと昇華する。
音楽の出逢いが兄を救ってくれた。わたしの心に、計り知れないほどの喜びを残してくれた。
この出逢いが、幸運でないはずがない。
* * *
♬アルノルト・ルートヴィヒ・メンデルスゾーン作曲
『2つのヴァイオリンとピアノのための三重奏曲 作品76』
ピンと空気が張り詰める。緊張感をはらむ曲調の中、二つの弓が素速く動く。
二つのヴァイオリンとピアノが絡み合う。優雅に、抒情豊かに、情熱的に。時に同音でユニゾンし、時に絶妙なハーモニーを響かせる。三人の息はピッタリだ。
今日は、珍しいメンバー構成だ。
鏡の向こうに、ヴァイオリンを構えたリーネルトさん。ピアノの前に座るレヴィンさん。
こちら側に、ヴァイオリニストの関川百尋さんが来ている。
「いい音だが、まだ少し硬いな」
一通り演奏が終わった後、関川さんが鏡に向かって言った。
「ヴァイオリンは女性を扱うように弾くのだ。一番いい場所を、こう、優し~く、撫でるように〜~」
「関川さーん!」
ほっとくと音兄みたいなエロ講釈に突入しかねないので、わたしは声を上げて待ったをかけた。リーネルトさんはまだ十五歳なんだからねっ!
「楽器に女性の名前は付けたかー? え、付けてない? そこの先生を見習いなさい。思いっきり恋に浮かれまくった音を出しとるぞ」
『えッ!』
ピアノの前でレヴィンさんが絶句。真っ赤になって慌てている先生を横目に、当のリーネルトさんは全く表情を変えずに答える。
『先生は確かに浮かれてますけど演奏はきちんとされてます。楽器に女性の名前も付けてません』
「なるほど。なかなか肝が据わっとるな。ファースト(第一ヴァイオリン)向きだ。どうだ、オケの入団テストを受けてみては」
『僕はオルガニスト志望です。それより、ここのスラーなんですけど――』
元ソリストの関川さん相手に、堂々とした振る舞いだ。
(必ず、またここに戻ってきます。今よりもしっかりした大人になって)
もともと大人びたところがあったリーネルトさんは、言葉通り、短期間のうちにさらに大人っぽく、男らしくなった。
歴史の変遷に揉まれ、数奇な運命に翻弄されて、前よりもずっと強くなった。
彼はもう、教会の床にうずくまって泣いていた男の子じゃない。
「関川さんのヴァイオリンって、亡くなった奥様の名前が付けられているそうですよ」
関川さんが帰った後、レヴィンさんがコーヒーを淹れに行っている間に、わたしはリーネルトさんに話しかけた。
「関川さんが言うには、ヴァイオリンに奥様の魂が宿っているから、とても感情豊かで柔らかな音色が出せるんだそうです。亡くなった後もずっと、音楽家と楽器として連れ添っているだなんて、たとえ話だとしてもとてもロマンチックですよね」
『僕は、先生とリネさんもそうなると思います』
驚いて彼を見ると、彼は冷静に言葉を継いだ。
『ずっと連れ添う、ってところです。先生は良くも悪くも人に対する態度を変えません。今のリネさんへの接し方も、ずっと変わらないと思います』
ちょっとわかる気がする。この先付き合いが長くなったとして、レヴィンさんにぞんざいに扱われるようになる光景が想像できない。いついかなる時も、楽しそうにうきうきしながらわたしに笑いかけてくれるところばかり浮かんでしまうのだ。
『リネさんが、先生のそんなところに飽きてしまったら話は別ですけど』
「それは大丈夫です。優しくてカッコよくて可愛い殿方は乙女の永遠の夢! そしてわたしは永遠の乙女ですから!」
リーネルトさんがちょっとだけ笑った。
きゃー、それ反則! 全乙女がクラッと来ちゃいますよ。
『あ、リーネルトが笑ってるー。何の話?』
コーヒーを持ってきたレヴィンさんに向かって、いつもの表情に戻ったリーネルトさんは。
『先生が、リネさんを家に呼ぶようになってから譜面を片付けて掃除をまめにするようになったって話です』
と答え、また師匠を赤面させたのだった。
* * *
温玉ちゃんがぽんぽんと飛び回っているリビングで。
出張の準備をしながら、音兄がしかめっ面で唸っている。
「今度は二ヶ月半……。長い、長すぎる。その間理音に会えないとか、行く前からもう死にそう」
「レコーディングにあちこちの施設訪問にコンクール審査に本番も……ここぞとばかりにお仕事ぶっこんできたねー」
出張中は、もちろんビデオ通話もするんだけど、そう何度もできるわけじゃない。お互いに仕事や大学があるし、時差もある。それに、通話をやり過ぎると音兄のホームシックが重症化して、仕事モードに戻れなくなっちゃう。
「やっぱり、クラシックはヨーロッパに拠点置いた方が仕事しやすそうだよね。この家はこのまま置いとくとして、向こうに拠点を置くつもりはないの?」
「今は無理。理音の大学があるから」
やっぱり、音兄はわたしのことを考えてくれてるんだ。
音兄だったら、海外でもっとたくさんの仕事ができる。音兄のピアニストとしての躍進に必要な条件は、わたしの自立だ。
早く卒業して、早く自立しないと。
「でも、理音が卒業したら……」
音兄が、何かを考え込んでる。
「ここんとこ、ずっと考えてたんだけど」
「何?」
「理音は、レヴィンと付き合ってたら結婚も出産もしないことになるよね」
「うん、そうなる。やり方次第で結婚気分は味わえるかもしれないけど、子供はさすがに」
「だから、さ」
「ん?」
音兄の長い指が、わたしのヘアピンをそっと撫でた。吸い込まれそうなほど綺麗な瞳が、正面からわたしの目を覗き込んでくる。ち、近い……。
「理音と、子供を育ててみたいんだ」
「………。
………はい……?」
* * *
我が兄はいったい何を言ってるのか。
思考停止したわたしの前で、話がどんどん進んでいく。
「レヴィンは凄い男だけど、どうしたってレヴィン一人では理音の人生すべてを幸せにすることはできない。だから、俺も理音を幸せにしたい。俺がレヴィンにできないことをする。二人で理音を幸せにする」
まるでわたしが同時に二人の男性と結婚するみたいなセリフ。でも、あの、どうやって。
「レヴィンも、それはわかってるんじゃないかな」
確かに、音兄ならわたしを幸せにしてくれるって、言ってたけど。
「でも、あの、子供って……。色々すっ飛ばしてるっていうか、そもそもわたしたちは、兄妹で……」
「うん。夫婦じゃないから養子は無理かもしれないけど、里子だったら育てられるかもしれない」
ん? 養子? 里子?
「このままいくと、俺たち三人とも子供を持たないかもしれないけど。子供を作らなくても次の世代を育てる方法はたくさんあるんだよ。定期的にワークショップを開催したり、プログラムを立ち上げて教育支援したりするのでもいい。この広い家や九台のピアノ、俺たちの音楽知識を活かせる方法がいくらでもある。理音は子供が好きだと思うし、退屈するヒマなんてないくらい充実した仕事ができると思う。今すぐの話じゃないし、理音が気乗りしなければまた別の方法を考える。できれば、俺は理音と一緒に、音楽と子供たちに関わる仕事ができたら嬉しいな」
「…………」
「ってことで、ちらっと考えてみてよ」
「音兄。わたし……」
もともと、わたしは漠然と「音兄のマネージャーになれたらいいな」なんて考えていた。
音兄のそばにいれば、もっと大きなことができるかもしれない。音兄の言う通り、音楽と子供たちに囲まれて、退屈するヒマなんてないだろう。
人と音楽の、未来を担う仕事。きっとものすごく忙しくて、大変で、責任重大で、わからないことだらけで。
でも、充実しててやり甲斐のある仕事だ。きっと楽しい人生になる。
音兄がわたしにくれる幸せは、わたしの人生そのものだ。
音兄はきっと、生まれた時からわたしを幸せにする天才なんだ。
「わたし、音兄と一緒に働きたい! 音兄についていきます!」
「よし。じゃあ、卒業したらまず出張について来てよ。一緒に広い世界を見て、いっぱい経験を積んで、今後の活動に活かせるようにしよう」
「うん!」
「出張中もちゃんとレヴィンとコンタクト取れるように、モニターをセットして環境作っておくからね。理音と一緒の出張、楽しみだなー!」
わたしの未来が、音楽に繋がった。
大好きな人たちと一緒に、これからも音楽の世界を生きることができるんだ。
ミラマリアさん。
あなたの世界にも、音楽を届けたい。わたしの喜びを分かち合いたい。
あなたの世界を、音楽でいっぱいにしたい――
* * *
楽器のない世界で、音楽の喜びを求めてさまよっていたあなた。
あなたの奏でる音が、乾いていた大地を潤すように、聴く人の心に沁みわたっていく。
あなたの作った曲が、太陽のない空にも新たな輝きを取り戻す。
♬『ただあなたの笑顔のために』
ミラマリアさんが作った曲。誰もが笑顔になれるような、とても可愛くて素敵な曲だ。
やっとできたばかりの鍵盤ハーモニカを持って、あなたは突然ひょこっと鏡の中に現れた。
初めて逢った時みたいに、いつもの猫耳ヘッドホンを付けて。アクアマリンの勝ち気そうな瞳をきらめかせて。
『本当はね。任務、わざと失敗しようと思ったの』
仕事で官舎を離れていた間のことを、彼女は少しだけ話してくれた。
『ひどい侵攻作戦よ。人間は、いつまで経っても同じことを繰り返す。わずかに残った資源を巡って、わずかに残った人間たちが殺し合いを続ける。ほんの一部の特権を得た階級がその他大勢を搾取する。この構図は、どの世界でもどの時代でも、終わることがないのかもしれない』
「失敗、って……そんなことをしたら、ミラマリアさんは……」
『ぶっちゃけ、死んでもかまわないとさえ思ったわ。この世界に、生きる意味なんてない。でもね。私が気まぐれで口ずさんだ歌に、反応してきたバカがいたの』
ミラマリアさんのいう「バカ」とは、部下の男性のことだった。
彼とも鏡越しに会うことができた。背が低めでリーネルトさんよりも歳下に見えるけど、音兄と同じ二十五歳だという。
初め小学生くらいかと思ったミラマリアさんも二十八歳だから、彼女の世界は環境や栄養の関係で体格が大きく育たない世界なのかもしれない。
『自分も音楽を知りたい、音楽が好きだ、って、言ってくれて……。それまで親しく話したことなんて、一度もなかったのに』
『だって、すっごくいい歌だったんです! えっ、この人がこの歌を? って、ビックリしたんですよ!』
部下の男性が、きらきらと瞳を輝かせる。
ミラマリアさんが歌っていたのが、彼女が即興で作ったオリジナル曲、『ただあなたの笑顔のために』だったのだ。
『それから、楽器の話なんかもするようになって。楽器のことを考える人間なんて私しかいないと思ってたから、こんなに興味を持ってもらえるなんて、って驚いたわけよ。彼は材料の調達にも協力してくれて、おかげでやっと鍵盤ハーモニカの試作品が一つ完成したの。だから、ここへ帰ってくることにした。どうしても、リネにこれを見せたくて』
「そうだったんですか……。わたし、すっごく嬉しいです。帰ってきてくれて、ありがとうございます!」
ミラマリアさんに話したいことが、たくさんたくさん、数えきれないほどある。
ミラマリアさんが、鍵盤ハーモニカの音を聞かせてくれた。彼女の鍵盤ハーモニカは、やっと少し音程の違いが感じられるくらいの、調子はずれの未完成品。でも、一生懸命作った二人の心がこもった優しい音だ。
音兄やレヴィンさん、リーネルトさんも巻き込んで、ミラマリアさんが作った曲をみんなで演奏しよう。いづ兄に、鍵盤ハーモニカの調整に協力してもらおう。
ミラマリアさんを見つめる部下さんの瞳が、とても優しくて温かい。
きっと、彼女の幸せもちゃんと、彼女の世界に残されているのだ。
今日もわたしたちは、温玉ちゃんの力で鏡の通信を繰り返す。
すべての世界を、音楽と笑顔でいっぱいに満たすために。一人でも多くの人を、幸せにするために。
一人でも、二人でも。
音楽があればきっと、誰かの心を動かせる。
音楽は、わたしたち人間が得ることのできた、かけがえのない宝《よろこび》だ。
『空飛ぶたまごと異世界ピアノオルガン♬アンサンブル』
― 完 ―
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