『あなたの「音」、回収します』 第13話 海を越える桜の音(1)
「母が好きだったという曲を、いつか、この手で」
あの日、卓渡の前に開けた、新たな道。
一度は諦めかけていた音楽の道が、自分の未来へと一筋すうっと繋がった。
生涯の相棒と信じる、「黒玉ちゃん」と共に。
一緒ならきっと、どこまでも歩いていける。
黒玉ちゃんの中に、関川の言う通り、本当に母の魂が入っているのかどうかはわからない。
仮にその通りだとして、果たして卵の中の魂に母の記憶が残っているのかどうか。
父も確信が持てなかったため、今まで息子に向かって「この卵がお前のお母さんなんだよ」などと告げることはできなかった。
ただ、信じることはできる。
信じることで残された者の心が立ち止まらずに済むのなら、少しぐらい信じてみてもいいだろう。
「またあの店に行ってみようか、黒玉ちゃん」
呼び方は変わらなくとも、込められた心は前よりも一段と温かい。
黒い燕尾服の男と、空を飛ぶ黒い卵。
真っ黒な一人と一個の関係は、この先もずっと、見果てぬ未来まで続いていくのだ。
* * *
「いつか、母が好きだった曲を振る時が来たら、ぜひ関川さんにヴァイオリンをお願いしたいんです」
関川が経営するアイリッシュ・パブ&カフェにて。
卓渡は、関川とギネスのグラスを交わし合いながら、そう切り出した。
「あの曲の要はヴァイオリンですから」
「まあ、タイトルからしてそうだもんな」
「関川さんがヴァイオリンなら、僕も安心して振れます。コンマス(コンサート・マスター)もお願いしますよ。いつになるかわからないけど、それまで長生きしてもらわないと」
「いつになるか、わからない、だと?」
関川の声に力が入った。ギネスはこれで六杯目。既にいくらか出来上がっている。
「今すぐ振りゃいいだろ、今すぐ」
「えぇ!? いや、まずはちゃんと修行し直してから……」
「実力がついてからやる、なんて言ってるやつは結局いつになってもできねえんだよ。誰が一回しか振っちゃいけないなんて言ったんだ? 今すぐ振って、来年も再来年も修行しながら振って、何度でも振りまくってどんどん良くしていきゃいいだろうが」
確かに。大事な曲だからと、最初から完璧を求めすぎていたかもしれない。卓渡は素直に頭を下げた。
「おっしゃる通りです。ただ、関川さん以外に演奏を頼める知り合いが……。僕の音楽関係の知り合いは、今ほとんど海外で。どなたかご紹介いただけませんか」
「いるじゃねえか。演奏できるメンツなら、たくさん」
老獪なヴァイオリニストは、口角を不敵にニィッと上げた。
* * *
『あー、あの曲。いい曲だよねー。あたしも好き』
通信担当の黒玉ちゃんから、女子高生の明るい声が響く。なんともこそばゆい気分だ。
『でも、あれって弦楽器ばっかじゃなかったっけ? フルートとかの笛物出てきたっけ?』
「今回は、僕の思う通りにアレンジするつもりなんですよ。僕が望む音楽に、歌希さんの音は欠かせないですから」
黒玉ちゃん越しに、目を丸くしたり照れ笑いしたりする、茶髪の女子高生の姿が思い浮かぶ。
回収人が率いる、債務者だらけの楽団を結成する。
異例中の異例とも思えるこの計画は、関川が提案したものだった。
「今回僕が振るのは、確実に『母が好きだった曲』とは違う楽器編成になるでしょう。でも、僕はこれから何度でもこの曲を振るつもりです。その度に、楽器もメンバーも入れ替わるはずです。今回は、縁があったばかりの、今だから集まれる人たちと一緒に音を残したい。一期一会の音楽を、その時々の繋がりと共に刻んでいきたいんです」
原曲とは違う形でも、母が聴けばきっと喜んでくれるだろう。
生き生きと音声を届ける黒玉ちゃんを見ていると、そんな気持ちが湧いてくる。
そもそも、この曲自体、作曲家とは別の人間による編曲が広く知られ、その編曲がタイトル(通称)の由来にもなっている。
原曲を尊重しながら、他の人間による編曲も受け継がれていく。クラシックに限らず、音楽にはよくあることだ。
『いいこと言うね〜。その時出逢った人と、その時だけの音を繋ぐ。パッヘルベルのカノンを思い出すね。でも、この曲はさすがにパーカッションとかは入れづらくない? 確かドラムの人もいるんだよね。ジャズっぽくリズムアレンジすんの?』
「そのことなんですが……」
* * *
『コンサート?』
卓渡のスマホ画面に、すっかり顔馴染みとなった少年の姿が映っている。
「そうなんです。一曲だけでは、この仕事で出逢った人たち全員の魅力を引き出すのは難しい。いっそ何曲か用意して、コンサートでもやってみたらどうかと、歌希さんに提案されまして」
債務者だらけの音廻楽団。債務者本人だけでなく、債務者が所属するスティール・バンドにフォルクローレ・バンド、アイリッシュ・バンドのメンバーにまで、参加を呼びかけるつもりでいる。
『すっごいカオスな編成だね、面白そう。で、またうちが会場で、俺が伴奏って感じ?』
「今回は、伴奏というよりオーケストラの一員として参加してもらいたいと思います。音葉さんのピアノの音色は多彩ですから、様々な楽器に近い音色を表現できるはずです。それから、コンサートの初めに何か一曲、独奏をお願いできますか。曲目は、音葉さんに決めていただいて構いません」
『独奏? 俺だけ?』
「『音きゅん成分を間近で摂取させてー!』と、歌希さんに頼まれちゃいまして。僕も久しぶりに聴きたいですし、音葉さんが持つ吸引力と安定感は、このコンサートの幕開けにふさわしいと思いますよ」
『……わかった、考えとく。コンサートの動画、俺のチャンネルに上げてもいいかな』
「いいですね。関川さんにはお店のいい宣伝になりそうです。他の皆さんにも了承を得ておきますね」
『じゃ、バランス考えるから、他の曲が決まったら教えて』
心なしか、嬉しさに声が弾んでいるように感じられる。
音葉にとって、これだけの人数と音を合わせる機会は貴重だ。ピアニストとしての階段を昇っていくうえで、いい経験となるだろう。
* * *
『えーっ、わたしも? いいんですか?』
もう一人の女子高生・琴名の反応は、予想通りに初々しかった。
『わたし、卓渡さんのお客でもなければ、演奏実力者でもないのに。皆さんの足を引っ張ってしまわないでしょうか』
確かに、彼女は「歌希の友達」でなければ呼ぶはずのなかった人物だ。
「僕は、音楽を通じて知り合った、このご縁を大事にしたいんです。それに、ずいぶん謙遜されてますが、琴名さんの実力は他のメンバーと音を合わせるに十分値します。足を引っ張るどころか、メンバー全員の音を輝かせてくれる、オーケストラになくてはならない音なんですよ」
これは本心だ。
相手が女子高生だからといって、心にもないお世辞を並べることはしない。音楽に関しては、特に。
「だから、もっと自信を持ってください」
『あ、ありがとうございますっ……』
「僕も、正直言って自信があるわけじゃありません。でも、指揮者は誰よりも曲を理解し、楽団の音を理解し、誰よりも強欲・傲慢でなくてはならない。たとえ自信がなくても、自信満々に不敵に振る舞う。指揮台に上がる以上、満足いくまでビシバシやるつもりです。それでもよければ、ぜひ『音廻楽団』へいらしてください」
『は、はい! 自信満々な卓渡さんを見たいから行きます! 音きゅんと関川さんも!』
少しズレた動機ではあるが、これで交渉成立だ。
* * *
「そーかそーか、おたくもついにシングラー・バンドに入る気になったか!」
「入らねーよ! 確かに独身だけど!」
スティール・おっさん・シングラー。
クセの強いバンドだが、リズム感と疾走感は文句なしに一流だ。
「今度こそ、ちゃんと指揮を見てくれよ!」
* * *
「クラシックやるんだろ? 俺らまで入って大丈夫なのか?」
フォルクローレ・バンドのルシオへの交渉は、淀みなく単純明快だった。
「ご安心ください。編曲の力と指揮の力で、どんな曲にもマッチさせてみせます」
* * *
「そんなわけで、もうクラシックとも呼べない編成なんですが、あなたのチェロの音がどうしても欲しいんです。お願いできますか」
丁重に申し出た卓渡に対し、チェロを抱えて座る老女は静かに答えた。
「こんな婆さん一人に『ポロヴェツ人』を弾かせる時点で、あんたが『正解の音楽』をおとなしくやるような人間じゃないことはわかってるよ。自由な編成に自由な解釈、おおいに結構。昔のように国の一流オケで大舞台に立つよりも、今の、ロマ(ジプシー)みたいな自由気ままな音楽生活の方が私の性に合ってる。
あんたが望む音を出せるかどうかはわからない。その代わり、あんたが望む以上の音を出してあげるよ」
卓渡が望む以上の答えだった。
* * *
楽器が揃った。
確かな腕を持つ、個性的なメンバーが集った。
卓渡の脳内に、音楽が広がる。
ひとつひとつ加わってゆく楽器。増えていく音色。
演奏する人間たちの思いが加わると、その先の音は完全なる未知の波だ。想像を大きく越えた音になるだろう。
忙しい日々が始まった。
メンバーの魅力を存分に引き出し、調和させるための、総譜の作成。
メンバーの予定を考慮した、練習日程の調整。歌希と琴名は部活のコンクールを控えているので、しばらくは二人抜きの練習になる。
練習も、本番と同じく川波邸で。
メンバー同士の顔合わせと、初の音合わせを済ませ、卓渡は確かな手応えを感じていた。
いける。
この楽団は、きっと凄い音になる。
つつがなく、順調に曲を進めていたある日。
出来立てほやほやの音廻楽団に、人間関係のトラブルが勃発し、活動を中断せざるを得ない事態が起きた。
「ざけんなあのヤロー! もう追放だー!」
寄せ集め債務者楽団、いきなり崩壊の危機……!?
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