
『空飛ぶたまごと異世界ピアノオルガン♬アンサンブル』 第32話 音葉のわくわくワークショップ(1)
ミラマリアさんがいなくなった。
すっかりしょげてしまったわたしに、夜遅くに帰宅したレヴィンさんが穏やかな声をかけてくれた。
『ミラマリアさんに、リネさんの想いが届いていないはずがありません。彼女は意見をはっきりと言う芯の強い女性であると同時に、とても繊細で優しい心の持ち主です。特に、リネさんのことを心から大切に想っているように見えました。今は何か事情があるようですが、いつまでもリネさんを悲しませることはないはずです。今は、信じて待ってみませんか。彼女の決断を』
レヴィンさんの言う通り、今のわたしには「信じて待つ」以外の選択肢がない。
それでも、レヴィンさんの言葉に導かれたように、ふっと心が軽くなった。
レヴィンさんには、「ミラマリアさんは仕事の関係で何かトラブルを抱えたらしい」と説明してある。彼女が行ったという「革命操作」の話はしていない。
話せばきっと、今度はレヴィンさんが責任を感じてしまう。
少なくとも、ミラマリアさんを通さずに勝手に話していいことではないはずだ。
信じよう。またいつか、必ず、ミラマリアさんと話ができる日が来ることを。
* * *
翌朝。
いづ兄はわたしの話を聞くと、鶏の唐揚げを十個もわたしのお皿に乗せてくれた。朝からこんなに食べられないよう。
思わず笑い出したわたしの頭を、音兄がポンポンしながらにっこりと言った。
「今日はワークショップの準備を詰めようと思うんだ。手伝ってくれるかな」
もうすぐ開催予定の、音兄のピアノ・ワークショップ。
ミラマリアさんは、この企画を観覧するのを楽しみにしてくれていた。そう思うと、ちょっぴり心が痛む。
でも。だからこそ、彼女ががっかりするような結果に終わらせることはできない。必ず成功させて、次へと繋げるんだ。
「『川波音葉のわくわくワークショップ』? 音兄って、ネーミングセンスこんなんだったっけ……」
「なかなか決まらなくて空欄のままにしてたら、音道さんに勝手に付けられたんだよ。次回は改名しよう、うん」
音兄が、あくまで個人の裁量で、少人数のお試しでやるシークレット・イベント。内容はかなり自由に考えさせてもらったけど、音兄の事務所にも企画書を提出して欲しいと言われたのだ。事務所の人たち、読んだらけっこうビックリするだろうなあ。
準備は思ったよりずっと大変で、おかげで悩む暇もないくらい。
慌ただしく準備が進み、あっという間に開催の日を迎えたのだった。
* * *
「今日は、僕がピアノで皆さんと楽しく遊んでみたいと思って、こんなワークショップを考えてみました。皆さんもぜひ楽しんでいってください。そして、前よりももっとピアノを好きになってもらえたら嬉しいです!」
今日の音兄は、まるで子供向け番組に出てくる「笑顔がとっても爽やかなおにいさん」だ。
コンサート・ピアニストの顔とも、インタビューを受ける時の顔とも違う。いつもよりずっとのびのびとした、他人には滅多に見せない顔になっている。
今回、ご招待したワークショップ参加者は九人。
部分的とはいえ自宅を開放するので、全員、身近な人からの紹介という、信頼できる人たちに来てもらっている。後方には、事務所の方や音楽業界関係の方が四人ほど見学に来ている。
この先、参加者の輪を広げるなら、その都度やり方を変えていく必要がある。自分たちのアイディアをどんどん出し合って、少しずつ形にしていく楽しさ。早くもやり甲斐を感じられる仕事だ。
参加者の中には、ピアノ専攻の現役音大生もいれば、全くピアノに触ったことがないおじさまもいる。音兄自身が、年齢・性別・経験・演奏レベルが偏らないように選別したメンバーだ。
あらゆる層に、ピアノを好きになってほしい。
「初心者でも楽しめる音楽がたくさんある」ということを知ってもらいたい。
そして、祖父のピアノをたくさんの人に可愛がってもらいたい――
音兄の思いがそのまま結実したような、万を期したプログラムの数々。いよいよ開幕だ。
ただ、参加者の皆さんが緊張でガチガチになっているのがわたしにもわかる。
皆さんの中には、音兄と面識がある人もいれば初対面の人もいるけど、音兄のこれまでの華々しい活躍を知らない人はいない。
興奮に舞い上がっちゃって話が頭に入らなさそうな人もいれば、少人数ゆえに自分が何かやらかしてしまわないかと不安そうな人もいる。
ワークショップに最適なメンタルコンディションへと導くのも、わたしたちの仕事だ。
と、ここで羽奈ちゃんが挙手。
羽奈ちゃんも、今回の参加者の一人だ。
「せんせぇ、今日も『黒鍵』弾きますかー?」
音兄は、これ以上は無理というくらいに破顔した。
「音道さん、それアンコールだから! 最後まで秘密なんだから、先にネタバレしないで!」
途端にコンサートルームが笑いに包まれた。
音兄が毎回アンコールで『黒鍵のエチュード』を弾くのは周知の事実だから、今更ネタバレも何もない。
音兄のちょっと芝居がかった慌てぶりや、小学二年生の女の子が物怖じせずにストレートに質問を投げてきたことなどが、参加者さんたちの緊張を和らげるのに一役買ってくれた。羽奈ちゃん、ありがとう!
* * *
参加者さんたちに、順番に簡単な自己紹介をしてもらい、いよいよメインのプログラムへと移る。まずは音兄による説明だ。
「今日は皆さんに、『理音の』」
「『川波音葉の練習曲第一番』を、弾いていただきますーっ!」
あっ、あっぶねーっ!!
直前まで、譜面タイトルが『理音の練習曲』だったもんなー。
「このタイトルじゃないと筆が乗らない」なんて、意味不明なこと言うんだもんなー。直前にタイトル全部消して直すの、大変だったわ。
今日は、音兄が今みたいなうっかり発言をかまさないように、目を光らせておかなくっちゃ。
世界一無駄な仕事だけど、いつ問題発言が飛び出すかわかったもんじゃない。
わたしが譜面の入ったクリアファイルを皆さんに配る中、音兄が説明を続ける。
「今お配りしているクリアファイルに、皆さんそれぞれ違う譜面が入っています。今日は皆さんで、一緒に一つの曲を弾いてみたいんですが、全員同じ演奏をしたんじゃ面白くないので、人数分、つまり僕も含めて十パートも作っちゃいました。せっかくなので、僕も演奏に混ぜてくださいね。あまり目立たないように小さく弾いてますので」
笑いと歓声が上がる。
ピアニストとの協演。これが今回のセールスポイントの一つ。
わざわざ来てくれたのだから、普段なかなかできないようなことを体験してもらわないとね。
「後で全パートの譜面を僕のSNSに上げておきますので、おうちに帰ってからも自由に演奏してもらってかまいません。人前で弾いたり、演奏の動画を上げたりするのも自由です。タイトルだけは変えずにお願いします。このタイトル(『川波音葉の練習曲第一番』)、作曲者名もいっぺんにわかって便利なんですよー。まだ第一番しかありませんけど」
また笑いが起こった。
『川波音葉の練習曲第一番』。その実態は、我が家のワークショップだからできる、「ピアノ連弾、五台二十手」という大編成だ。
参加者一人一人のレベルに応じた、難易度の違う譜面が十人分。
わたしが準備に一番時間をかけたのは、この譜面の作成だった。
音兄が、次々に曲を生み出してはミミズ音符で書き殴り、わたしが誰にでも読めるようにPCの譜面作成画面に打ち込んでいく。
ミミズ文字による注意書きは、わざと少し残しておいた。ファンにとっては、このミミズが貴重だったりするのだ。
ミミズ音符を解読しつつ譜面を作成してて、一つ、わかったことがある。
音兄の、参加者に配慮した作曲スキルが桁違いなのだ。
それぞれの参加者が、ワークショップ当日、約一時間の練習で無理なく弾けるようになる難易度設定。それだけじゃない。
どのパートにも必ず、主題を奏でる部分、エモい聴かせどころが存在する。伴奏や裏メロだけの、退屈に感じそうなパートは一つもない。全ての譜面が、パート譜であると同時にソロ譜であると言ってもいいほどの完成度なのだ。
ワークショップでの十人アンサンブルも。帰宅後に個人で、あるいはお友達同士で弾いても。
どのパートも、聴いて楽しく、弾いて楽しい。これなら間違いなく、何人でも、何度でも曲を楽しめる。
こんな作曲の仕方があるなんて――
我が兄ながら、わたしはPCの前で何度も唸らされた。感動のあまり、涙さえ浮かんできた。
初めての経験だった。譜面を見ただけで、泣き出したくなるなんて……。
* * *
説明が終わったら、いよいよ実践編。パート練だ。
今日は、我が家のピアノ九台全てがフル稼働。コンサートルームに五台、四部屋の練習室に一台ずつ。こちらであらかじめ決めさせてもらったパートナーと共に、連弾の練習に入ってもらう。
ピアノをあちこちに移動し会場設営に駆け回ってくれたのは、いづ兄と音道さんだ。もちろん、音道さんとチュー玉ちゃんには、全ピアノの調律という重要な仕事も担当してもらっている。
わたしと里琴さんは、音兄と手分けして参加者さんたちの練習を見回り始めた。
譜面が読めない初心者の方には、目の前でお手本を弾いて耳で覚えてもらいながら、懇切丁寧に指導。
譜面が読める人には、わからない部分を解説。
譜面を見た途端すぐに弾き始められる音大生さんには、そばで聴いてチェックしながら、たまに軽く話をしてみたり。
譜読み、練習、緊張を解くための雑談。
笑いも交えながら、和やかに、あっという間に時間が過ぎていく。
わたしたちが意識したのは、わたしと里琴さんだけでなく、「音兄自身が必ず全員に声をかけて指導すること」。
ピアニストに直接指導してもらう。これも、今回のセールスポイントの一つなのだ。
レベルが全く違う者同士の連弾は、一つ間違えばやりづらさだけを感じたまま終わってしまうかもしれない。
音兄は全ピアノを何度も何度も動き回り、積極的に声をかけ、柔らかな語り口と笑顔でワークショップ全体の空気を作っていく。
音兄の行くところ、必ず笑いが起こる。自虐ネタや業界裏話なんかをちょっとずつ披露して、笑いを取っているみたい。
皆さんの緊張が、かなり解れたんじゃないだろうか。自分から音兄に話しかけてくれる参加者さんが、どんどん増えてきた。
約一時間後。
プログラムの次段階。いよいよ、十人全員揃っての演奏タイムだ!
↓<続き>