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『あなたの「音」、回収します』 第2話 空飛ぶおたまじゃくし(2)

「あなたなら簡単でしょう? 天才ピアニスト、川波かわなみ音葉おとはさん」

 燕尾服の青年・卓渡たくとの言葉に、音葉の両目がキッと鋭さを増した。

「音を提供ってどういうこと。どこで何を弾けっての」

「おじいさまのピアノはこの邸宅ここにあるんですよね? 曲目は指定させていただきます。なんなら今からすぐにでも。心の準備がぁ~、ということでしたら、また出直しますよ」

「今、ここで、俺の演奏を?」

 嘘だろ、とうめきながら、音葉が頭を押さえる。

「よく、そんなこと言えるね……。知ってんだろ、俺がどんなピアニストかって」

「ええ、ざっくりと。動画は見ましたよ」

「だったら動画でいいじゃん。なんでわざわざあんたの前で弾く必要があるんだよ」

「そこはそれ、やっぱり手打ち麺や卵かけご飯TKGと同じで、『ナマ』にはこだわりたいじゃないですか~」

「わかんないな。あんたはその音源を職場に渡すんだろ? あんたひとりがナマ演を聴いたって意味ないじゃん」

「ご心配なく〜。この黒玉は、どんなレコーダーもかなわないほどの最高品質での録音を可能としておりますのでー」

 卓渡の肩の上で、黒い卵が「えっへん」とばかりに胸(?)を張る。
 音葉の目には「こいつマジでおかしい」という言葉が浮かんでいるが、玄関先エントランスで問答を続けてもしょうがないと気づいたのか、渋々しぶしぶピアノがある音楽室へと案内したのだった。

 * * *

「このピアノの特性も知ってんだよね」

 椅子を調節し、ポロポロと弾いてコンディションを確かめながら、音葉が乱暴に言葉を投げる。

 ピアノが設置されている音楽室は、玄関先エントランスやそこから続く階段同様にゆったりと広かった。音響にもこだわって設計されているのだろう。ちょっとしたコンサートなら十分に可能な広さだ。
 音葉と庭師しかいない今の川波家には、不釣り合いなほど大きく、物寂しい空間に感じられた。

 照明を美しく反射する黒いグランドピアノのそばに、黒い機材もいくつか並んでいる。ここで録音や撮影を行なっているのだろう。

「で、何を弾けばいいわけ」

「そうですねー、まずはテスト録音ということで、音葉さんがお好きな曲を一曲お願いします。こちらからのリクエストは、その後に」

「……」

 面倒ごとは早く済ませたい。まず一曲。それから、何を指定されるかはわからないがもう一曲。さっさと済ませて、この妙な男にさっさとお帰り願いたい。

 音葉は椅子に腰かけ、そばの機材の上に置かれていたヘッドホンを装着し、ピアノの電源を入れて。

 ひとつ、静かに呼吸し、両手を鍵盤に乗せた。

 * * *

 突然の、地を這うような鳴動。
 次に、スタッカートよりも鋭い、叩きつけるような和音コードのスタッカーティシモ。
 しょっぱなからフォルテフォルティッシモ(極めて強く)。強烈な連打と細かな三十二分音符がテンポを保ちながら入り乱れる。成熟前の小さな手が、縦横無尽に低音から高音までを駆け巡る。

♬フランツ・リスト作曲
 超絶技巧練習曲 S.139 第8番ハ短調『荒々しき狩』(または『死霊の群れ』)

 超絶技巧練習曲。リストの曲集のうちのひとつ。名前の通り、間違いなく難曲だ。
 複雑なコードにはアクセントとスタッカーティシモとの差異が要求され、合い間に三十二分音符の高速のスタッカーティシモまでがまとわりつく。

 演奏記号はPresto strepitoso (急速に、騒がしく)。
 技巧を見せつけながら嵐のように激しく荒ぶった演奏は、わずか一分ほどで、強さをメゾピアノに落とし、歌うような落ち着きを取り戻す。

 が、そこで演奏は止まってしまった。

「あれ、もう終わりですか? こっから素敵なとこなのに」

「これでもうわかっただろ。このピアノの特性も、俺の技量も」

「うーん、そうですね~」

 卓渡はわざとらしく考え込む素振りを見せる。

「まあ確かに、超絶技巧は『どや! すげえだろ!』って聴衆に見せつけるために使われるところはありますよね。パフォーマーたるピアニストにはそれが必要な場面も多いことでしょう。間違いなく、インパクト絶大ですしね」

「そうじゃなくて! 知ってんだろ、俺が世間で何て言われてるか――」

「『半自動演奏者セミオート・プレイヤー』でしたっけ? 言いたい奴には言わせとけばいいと思うんですが」

 ガアン!! と、指十本分の不協和音が響き渡った。

「ふざけんな! こんな演奏に何の価値もない! また動画に上げて笑いものにする気か!? こんなの、俺の、実力じゃないッ!!」

 音葉はヘッドホンを外して投げ捨てた。機材にぶつかり、武骨な音を立てる。
 卓渡は、音葉の荒れた呼吸が落ち着きを取り戻すまで、しばらくそのまま待っていた。
 それから、ヘッドホンを拾い上げ、大事そうに両手で包み込んだ。

「それでも、おじいさまの思いが込められたピアノなんですよね」

 半自動演奏セミオート・プレイング。それが、このピアノの特性。

 あらかじめインストールされた、あるいは端末から読み込んだ演奏データを再現するのが、ピアノの自動演奏機能だ。

 このピアノは、あらかじめ用意されたデータではなく、ヘッドホンから奏者プレイヤーの意志を読み取り、その場で演奏に反映させる。
 強弱もタイミングも、他の表現諸々もろもろも、すべて奏者の思いのままに。
 たとえミスタッチをしても、奏者がイメージさえすれば正しい音に変える。音葉のまだ小さな手が、オクターブ(八度)以上に届く手を必要とするリストの難曲を弾きこなしたのは、この特性によるものだった。

「音葉さん。余計なことを言うかもしれませんが、おじいさまはあなたにコンプレックスを植え付けるためにわざわざこのピアノを作られたわけじゃないと思いますよ。おそらく、何らかの事情でピアノが弾けない、でもどうしても弾いてみたい、演奏を楽しみたい――そんな人のために作られたと思うんです」

「わかってる……わかってるよ! だけど!」

「音楽との出逢いは一期一会。同じ人が同じ場所で同じピアノを弾いたとしても、まったく同じ音というのは二度と作れない。たとえ機械の力を借りて完璧な演奏ができたとしても、あなたが音に乗せた感情は誰にも真似のできない、たった今だけの唯一無二のものなんです。私が聞きたいのは、そういう、今のあなたの命が精一杯表現してくれる音、なんですよ」

「……」

 音葉はピアノの前に立ち尽くしたまま、ずっと下を向いている。
 呼吸はようやく戻ってきたが、卓渡の言葉が響いたのか否か、続く言葉を出せないでいる。

 卓渡は自分の後頭部に手を伸ばし、すっと何かを引き抜いた。ハーフアップにしていたベートーヴェン・ヘアがぱらりと落ちて、右手に現れたのは小さな指揮棒。先端を引っぱると、みよーんと40センチほどに伸びた。

「では、私からの指定の曲を。カミーユ・サン=サーンス作曲、『動物の謝肉祭』より、第13曲『白鳥』をお願いします」

 指揮棒を優雅に振りながらのリクエスト。

「……チェロ曲じゃん」

「ピアノ独奏アレンジ、ご存知でしょう? 簡易バージョンですと、片手でメロディ・片手で伴奏とはっきり分けますが、私が指定するのはもちろん難しい方。両手で伴奏しながら、右手、時に左手に主旋律を乗せていく。
♬そ~ら~に~く~ろ~い~た~~まご~~♬ってね。
 ピアノの音色で伴奏しながら、メロディでチェロの音色を表現する。このピアノなら、できますよね?」

「……」

『荒々しき狩』ほどの難曲ではない。テンポも、白鳥の曲というだけあってゆったりめだ。
 演奏記号はAndantino grazioso(Andanteよりやや速く、優雅に)。(Andanteの意味は「歩くような速さで」)

 だからこそ、奏者の表現力がより浮き彫りとなる。

 音葉はゆっくりと息を吐いた。
 卓渡は、今日がダメなら出直すと言っていた。今すぐ弾く必要はない。

 なのに、なぜか、今弾いてみたくなった。
 卓渡が本当に、完璧なテクニックではなく、今の自分だからこそ表現できる音を待ってくれるというのなら、挑戦してみたい。

 ピアノを弾きたい。この気持ちを「楽しい」と感じるのは、いつ以来だろう。


↓<続き>


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