『空飛ぶたまごと異世界ピアノオルガン♬アンサンブル』 第24話 愛しきものに捧げるコンチェルト(1)
「やっぱノータイは楽でいいなー」
鏡を見ながら、ベストのボタンの締め具合を確認している音兄。
今日の音兄の服装は、黒シャツにダークグレーのベストとスラックス。シャツの首元のボタンは外したままだ。
黒系の引き締まった色がよく似合う。シュッと細身に見えるけど、演奏に必要な筋肉がちゃんと付いている。ピアノのために鍛え抜かれた身体は、男らしさとしなやかな色気を兼ね備えている。我が兄ながら、やっぱりいい男なのだ。
「タイってあんまり好きじゃないんだよね。付けさせられてる感があって。毎回こういう服だったらいいのに」
「音兄は蝶ネクタイでも燕尾服でも、何でも似合うよ」
「理音のグリーンのレースのワンピースも、すごくよく似合ってる」
「えへへ、ありがと。音兄に買ってもらったパールも付けてるよ」
温玉ちゃんには、わたしのワンピースと同色のハンカチのレースを少し切って、レースの蝶ネクタイを作って付けてあげた。ぴょんぴょん跳んでるから、喜んでくれてるみたい。
ところで温玉ちゃんって、性別があるとしたら、男の子と女の子どっちなのかな?
音兄はヘアワックスを両手に伸ばし、前髪を流してカッコよく整えている。コンサートの度に自分でやってるので手慣れたものだ。
あっという間に、ステージに出しても恥ずかしくない「黒鍵王子」が出来上がった。
ここは、本番前の楽屋のような場所。我が家の洗面所だけどね。
わたしは今まで、音兄のステージを見に行く時に楽屋まで足を伸ばしたことがない。付近には関係者やファンがたくさんいるし、「妹です」って宣言しながら出入りするのもなんだか恥ずかしくて。
本番直前に応援メッセージを送ったこともない。大事な時にそんな図々しいことができるのは、音道さんくらいだ。あの人絶対音兄のこと好きだよね。
だから、本番前の独特の緊張感をはらんだこの空気を、音兄と共有するのは初めてかもしれない。
「音兄って、本番前に必ずやるおまじないとかある?」
「いつも理音の写真をぎゅーっと抱きしめてる」
だーー。聞くんじゃなかった。
「今日は本人がいるから、ちょっと変えてみようかな」
え、まさか。
「右手出してくれる? 理音のハンドパワーが欲しい」
わたしのハンドパワーなんてもらってどうすんの?
手をつなぎたいだけかな。まあ、そのくらいなら……
と、右手を出したら、音兄はすいっと流れる動きでわたしの手を取り身をかがめて、わたしの手の甲に口づけをした。思いっきり。
「ぎゃーー!! 何しとんねんー!!」
「あはは、出た関西弁。ハンドパワーもらったよ」
油断も隙もないっ!
せっかくきちんとメイクしたのに、今のわたしはメイクの意味がないほど顔じゅう真っ赤だ。恥ずかしいぃー!
「理音、真面目な話。聞いてくれる?」
手を強く握ったまま、音兄がじっと見つめてくる。
「今まで、理音にはずいぶん情けない姿を見せた。『もうピアノが弾けない』なんて言った。でも、俺は今ピアノの前にいる。もう逃げたりしない。理音のおかげだ」
急に真剣な顔で言うの、ずるいよ。手を振りほどけなくなっちゃう。
「音兄……。わたしは、情けないだなんて少しも思ってない。少しの間逃げるのだって、きっとあの時の音兄には必要だったんだよ。戻ってこれたのは全部、音兄自身の力」
「その力をくれたのは理音だよ。今日の演奏は――今日もだけど、全部理音に捧げる。七年前よりも、絶対にいい音を届ける。俺史上最高の演奏を聞かせる。だから、ちゃんと聴いてて。ちゃんと全部、受け取って。いい?」
わたしは、手を握られたまま黙って頷いた。
わたしにとって、世界最高のピアニストは音兄だった。子供の頃からずっと。
レヴィンさんのピアノもすごく素敵だけど、やっぱりわたしの中には音兄の音が染みついている。
最高のピアノを、さらに最上級の最高にして、わたしに届けてくれるんだ。
まだ始まってもいないのに、目の奥がジンとして、涙がこぼれそうになる。こぼれないように顔を上げると、いつもと変わらない、誰よりもわたしの心を包み込んでくれる音兄の笑顔。
「行こうか。会場までエスコートさせて」
わたしは言われるがまま、音兄のエスコートで会場となるコンサートルームへと向かった。
* * *
コンサートルームでは、今日のために招待したほんの少しのお客さまたちが、既に待ってくれていた。
音道さんの奥様の里琴さんと、娘さんの羽奈ちゃん。現在いづ兄の身体を預かってくれている、ヴァイオリニストの関川さん。
音道さんは、チュー玉ちゃんと一緒に最終調律の真っ最中だ。鏡の向こうでオルガンの音を鳴らしてくれているのは、たぶんリーネルトさんだろう。
「音くんせんせー、今日は誰とコンサートするの?」
羽奈ちゃんの無邪気な問いに、音兄が「鏡に映ってる人だよ」と、何の捻りもなく答える。
「えー、これ、鏡だったの!」
「最近の鏡は何かすごいわねー」
羽奈ちゃん、里琴さん。うちの鏡は特製なんですよ。
温玉ちゃんがふよふよと飛んで、わたしたちの大事な化粧台の上に着地した。
鏡と温玉ちゃん。ここから、今日のコンサート協演のための全てが動き出したんだ。
わたしたちにとっては自宅のコンサートルームで開催するミニコンサートだけれど、鏡の向こうの世界では、「ピアニスト・ベンカーとの協演コンサートのためのリハーサル」という体裁をとっている。
だから、本当は本番のようにきちんとした服装をしたいけれど、リハーサルらしくノータイにしておこう、と言ったのはレヴィンさんだった。
鏡に現れたレヴィンさんは、一目で普段よりも上質とわかるグレーのスリーピーススーツに、白のシャツを着用。腰が細くてすらっと背が高いから、やっぱり何を着てもカッコいい。銀縁眼鏡も一段と輝いている。
わたしと目が合うと、少し微笑みながらも、そわそわと落ち着かなげに視線を外してしまった。
実は、わたしが自分では愛の告白だと思っている威勢のいい発言をかました後、まだ二人だけで話をしていないのだ。
協演が終わったら、話せるかな。
心臓バクバクになりそうだけど、また会いたい、もっとたくさん話したいって、もう一度ちゃんと伝えたい。
それから……
「レヴィン、ドレスアップした女性は一言褒めるものだよ」
わたしたちのもじもじした距離を、音兄が遠慮なしに飛び越えてしまった。
音兄に背中を押されて、鏡に、レヴィンさんに至近距離まで近づいてしまう。ちっ、近いっ!
慌てて離れると、『リネさん!』と、レヴィンさんの声がまっすぐに飛んできた。
『オトハに言われたからじゃなくて。前から、初めて会った時から思ってたんですが……リネさんは、あの、とても、綺麗だと思います!』
はえっ!?
初対面の時って、わたし、眼鏡にジャージでしたよ?
あれ以来、きちんと身だしなみを整えてから鏡の前へ行くようになった。だってキラキラしたイケメンが二人もいて、しかも教会なんだもの。
「ありがとうございますっ……あっ、レヴィンさんも、とても素敵です! カッコいいです!」
たくさん話したいことがあるのに、それしか言えない。早くも心臓が暴れ出してクラクラしそう。わたし、こんなんで「もっとお話したいですーっ!」って言えるの?
レヴィンさんは、少しホッとしたような、柔らかな笑顔を見せてくれた。
『今日の服もとてもお似合いです。オトハもね』
「俺はイケメンに言われるのムカつくんだってば」
音兄の一言で、会場に笑いがあふれた。
こちらのお客さまたちをレヴィンさんに紹介して、和やかな空気が流れる。いい感じにリラックスできそう。
「そういえば、ミラマリアさんは? 温玉ちゃん、彼女とはちゃんと繋がってる?」
温玉ちゃんに尋ねると、その瞬間に画面が切り替わった。
現れたのは、カッチリとした濃紺のブレザーとネクタイで、どこかの制服のような服装に身を包んだミラマリアさん。
胸元には、バッジのような物がいくつか……ひょっとして、これって……
『よかった、間に合った!』
「ミラマリアさん、その服装……ひょっとして、お仕事の?」
「軍服」なのかな、と思ったけど、言葉に出せなかった。ミラマリアさんのお仕事は「軍関係」としか聞いていない。
『ごめんね、今日はエレガントなコーデじゃなくて。これが私の本当の正装なの。今日は二人の大切な演奏、心して聴かせてもらいます』
音兄とレヴィンさんが恭しく挨拶したところで、次の来訪者が『やっとできたーッ!!』と、息せき切って教会に駆け込んできた。
『できたぜ最後の一本!! 急いで取り付けてくる!!』
いづ兄だった。今から取り付けて整音・調律って、マジですか。
「ギリすぎるだろ。あいつ、帰ってきたら家の全ピアノ隅々まで磨かせてやる」
音兄が言いながら笑っている。
音道さんが張り切って最後の叫びを轟かせた。
「よっしゃー! リーネルト、音くれー!」
日本語がわからないはずのリーネルトさんが、即座に音を響かせる。
最終調律が済んだ。
教会では、完成を喜ぶ大勢の人たちの歓声が湧き起こり、会場の空気を揺らすのだった。
* * *
今日のこのコンサートは、初めはわたしの中に生まれた小さな「夢」だった。
わたしが誰よりも尊敬する、二人の素敵な音楽家たち。
彼らが音を合わせたら、一体どんな音楽が生まれるだろう――
いづ兄もまた、「あの時の兄貴の演奏をもう一度聴きたい」という「夢」を心に秘めていた。
もとは、わたしといづ兄の我がままから始まった小さな夢。
わたしたちの「たまご」が、その夢を叶えるために力を貸してくれた。いつの間にか、たくさんの人たちが、わたしたちの夢のために動いてくれていた。
音兄が、レヴィンさんに演奏準備の状況を確認する。
いよいよ開演の時間だ。
「レヴィン。勝負はまだ続いてるからね」
『もちろん。どちらが曲をより輝かせられるか』
「どっちが先に理音を昇天させられるか、だよ」
「音兄〜!」
直前にまたも恥ずかしいセリフを聞いてしまった。わたしも困るけど、レヴィンさんはもっと困るよー!
と思ったら、レヴィンさんは予想よりもずっと真剣な目で、わたしに向かってこう言ったのだ。
『そういうことなら、ますます負けられません。リネさん、あなたの心に響く音を必ず届けます。聴いていてくださいね』
「はっ、はいっ! もちろんです!」
『今日の音楽を、神のために、音楽を愛する全ての人のために。そしてリネさん、あなたに捧げます』
まだ始まってもいないのに、胸がいっぱいいっぱいで今にも爆発しそう。
今この場にいられることは、間違いなく、わたしの人生の最も幸福な出来事の一つなのだ。
「よし、レヴィン、行こう」
『ああ』
今、二人が楽器へと向かう。
新しい音楽を生み出すために。
「音兄、行ってらっしゃい。いい演奏待ってる」
「任せろ」
「レヴィンさん、兄をよろしくお願いします」
『任せてください。リネさんも、どうぞ楽しんで』
いよいよ、二人の協奏曲が始まる。
↓<続き>
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