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 覆水盆に返る

これはありふれた親子の Case1 にすぎませんが、娘から見えた父の話です。

 父の生涯一度の旅は戦争でした。
 日本が実際に何年戦争していたのか当時の私は知りません。まだ生まれてもないのです。
「はたちで戦争にとられて 帰ったら三十になっていた」と呟く父の十年におよぶそれを、父は〈旅〉と言い、もう旅はしたくないと言うのでした。
 子どもの頃、父の膝の上でお話のように聞いた戦地での体験は 私が成長するにつれて聞くことは無くなりました。そして大人になる頃には 殆ど話すことはありませんでした。


二度マラリアにかかったこと 
高熱で死を覚悟したこと
二度目は帰れるかもしれないと期待したこと 
マラリアでは帰れなかったこと

太ももには被弾の傷痕があり みせてくれたこと
治療で、太腿を貫通した穴に布を通して消毒されて気絶したこと 

馬で疾走したこと 
練兵場にいる間 モテたこと

敵に出くわしたくなかったこと 
人に銃を向けるのは凄く恐ろしかったこと

ひもじい(空腹)のが辛かったこと
最後は捕虜になったけれど親切に扱われたこと
運良く帰国できたこと

 そういう断片を紙芝居の語りのように話しました。子どもの私には、お話でした。
 大地を蹴って馬で疾走する話は今でも時々思い出します。馬はとても賢いので敬意がなければ乗せてはもらえない、乗せてもらいたければその前に馬とよく話をしなければならない、という話。いつか馬と話して乗せてもらえるか試してみようと思いました。
 モテるというのは何か尋ねたら、練兵場で卵焼きの差し入れを貰ったことを嬉しそうに話してくれました。その頃は 卵焼きを貰うのが モテることだと思っていました。
 
 父の太ももの傷痕のひきつれに穴を探しましたが穴は埋まっていました。 父は笑い、そりゃ何年もたったら傷はうまるものよと言います。
 ‘’敵さん‘’と会って怖くなかったのか聞いたら
真顔になり 「あのな敵さんも怖いんよ 同じ人間やからね。 いっぺんなんか 顔見合わして 周りに人がおらんかったんで、たがいに知らん顔して会わんかったことにした」
え、その人と話したん?
「いいや 話さん」
父は いつも ‘’敵さん‘’ と言いました。
 
そういう話の間に いつも言いきかされたことがあります。 くり返し何度も。

覆水盆に返らず 
思うても 口に出したらいかん
口から出た言葉は消せん
思うても 言うたらいかん

 私が小学校に上がる頃 父は気難しい人になっていきました。どんなに 地雷を踏まないように 気を付けても突然 不機嫌に怒りだすのです。
御飯を食べていても、テレビで笑っていても油断はできません。母は時々、廊下の隅で声を殺して泣いていました。
 いつ怒り出すかわからないのですが、 地雷を踏むのは私が多かったように思います。母も姉も父の気難しさを嘆いていたので、其々の地雷を感じていたかもしれません。けれども、私がきっかけのことが多かったのです。それが引き金になり、母や姉に飛び火するのでした。
 私の何が父を苛立たせたのか、ついに分かる日は来ませんでした。 

 私は次第に本心を言わない子どもになりました。そういうことは、子どもでも不審感を持つからでしょう、学校のハキハキした優等生に目をつけられます。学級長です。
 ある日、漢字百字帳のチェックで日付をごまかしていると疑われます。
 私は漢字を書くのが面白くついつい書きすぎてしまい、何日分かの日付を後から書き直しました。一日に書いていいのは一ページと決められています。チェックするのが大変だからです。
 はっきり言えば良いものを 黙っていました。言わなかったのではなく、言えなかったのです。級長さんが恐ろしかったのです。念入りに調べられた結果許してもらえましたが、今度は 黙っていたことを責められます。
 
 この念入りに調べられている間の恐怖は、肝試しの恐怖とは違うものです。砂時計の砂の中に体ごと埋もれていくような時間。ごまかしてなどいないけど、勘違いしていたらどうしようと思い 頭の中で漢字帳のページを繰り間違えていないことを願い、自分の心音を聴いていた時間。調べているのが同級生であることへの 情けなさ。
 そして、そういう日も、学期が終わり級長さんが変わり終わります。多分、責任感溢れる級長さんだったのでしょう。
 
 さて給食です。鶏の皮が食べられません。六時間目も、掃除の時間も、終わりの会が過ぎて皆が帰ってしまっても、机の上の給食の皿に鶏の皮は残り続けています。 私も座り続けています。ついに先生が来る足音がして、急いで口に押し込みますが、 飲み込めず、えずき、 吐き戻してしまいました。
 ようやく解放され、一目散に公園まで、泣いてもいいと思える場所まで走ります。
 その公園には高い滑り台があります。鉄の階段を駆け上がり、てっぺんに着いた途端 涙がどっと出ました。それから夕日が沈み暗くなるまでをコマ送りのように今でも呼び起こせます。涙が乾くまでは帰れません。子どもなりのプライドでしょうか。
 日が落ちて空が茜色からばら色へ、やがて群青へと色を変えてゆくあの日眺めた夕景を忘れることはありません。日が沈んでからの美しく悲しい空の色。 美しい と 悲しい が結びついた日。
 
 その日 やっと帰り着いた家でも夕食に鶏肉がでました。 食べられません。父は怒り出し、押入れに入れられました。母が、父に謝るようにと言いにきたらしいのですが、私は押入れで泣き疲れて眠ってしまっていました。
 翌朝、力の限り泣いて眠れば、すっきりすることを知ります。あんな一日の後とは思えないほど清々しい朝。

 本心を言わない小学生は毎日図書室に通い、 日本文学全集や世界文学全集を借りて読むことが支えです。
 好きというのとも違う、何度読んだかわからないほど繰返し読んだのは『ああ、無情』です。ジャン・バルジャンとコゼットの物語に何度も泣きました。泣くのに、直ぐにまた読みたくなります。後々、その物語は「レ・ミゼラブル」のほんの一部分であることを知り驚きます。この本を入口に読書遍歴は始まりました。 
 高校生になる頃には 父母への内心の反抗は一層強く、どうすれば父の怒りに触れず 納得してもらえる方法で家を出られるか、そればかりを考えていました。
 
 父は、日ごろから「勉強して自らを助けよ」と言う人でしたので、 進学希望を伝えると すんなり了承されます。さて、その行き先です。なるべく遠くを申し出ると、関西以西の制限がつきました。 
 それでも、それは試験に受からなければ消える道です。必死です。必死でした。受からなければ そのまま家にいてどこかに勤め 父の地雷を踏む恐怖に怯えながら暮らす未来しか 当時の私には見えていません。

 大学は 学生運動の爪跡が至る処に残り 嵐の後のような有り様でした。社会への疑問と憤懣を叫ぶタテカンの言葉をどう捉えればいいのかさえ解らない新入生です。
 そこで学ぶうちに 父の言動を別の角度から見直すようになります。離れたことで冷静になれたのでしょう。第一 側にいないので地雷はありません。初めて それを気にしない生活をしました。休みの日はよく寝ていました。
 学校の斡旋で、普通の家庭に下宿し、そこの家族の一員となり通学しました。他所の家庭という世界は新しく、見るもの聞くもの全てが新鮮でした。
 私の目には 憧れのような家庭です。ある意味では 普通ではなかったのかもしれませんが。
 家主は名士のようで、洋風の暮らしです。味噌汁とご飯の朝から、パンと紅茶と卵料理にサラダの朝へ 私の朝は激変しました。
 最初 クラスの人からは下宿生と思われていませんでした。愛すべき理想の家で、慎ましやかな家族と日常を共にするうちに 心から打ち解けていきます。家主さんは 父より十ほど若く、私が物語以外で知る 初めて見る紳士でした。
 そのような家庭にも 親の悩み 子の悩みは存在し、私は初めて親の立場からの目線を知ります。そのことが、父や母を初めて一人の人間像として見直すことへ繋がりました。 
 
 大学でも 新しい友と新しい世界の扉を叩き学ぶことの楽しさを知り、恋もし 失恋も味わい 尊敬する師も得た、またたく間の四年間でした。卒論を提出し大学院を望んでみましたが、さすがの父もこれは即時に認めませんでした。
 失恋はしてもまだ未練がましく私はそこに残りたかった という本心もありました。 余程心配したらしく、父は卒業式当日どこで借りてきたのか今で言うワンボックスカーでやってきて、私が式から帰ると、少ない家財道具は全部車に収まっていました。強制連行です。
 
 再び地雷の家に帰ってきます。急いで 勤め口をみつけなければと焦りました。いくら両親への反抗心は解けても、父が気難しいことに変わりありません。 何とか今度は就職して家を出なくては。 
 難航した末にやっと見つけた職場は、家からはだいぶ離れています。また荷造りをして家を離れホッとする間もなく、職場の先輩と同じ寮に住み、ともかく新生活を始めます。
 ところが、一人前になる前に〈行き遅れ〉を心配され職場に世話を焼く人が居て、間をおかず、結婚することになりました。
 当時は男女ともに結婚は「するもの、しなければならないもの」という社会通念がありました。  父の気難しさは相変わらずであり、わたしが結婚相手に望むことを尋ねられた時 「怒らない人」と即答して その人に驚かれました。
 紹介され 付き合ってみると、その穏やかさに驚きます。気付いたら 長年に渡る親子関係のしがらみを打ち明けていました。今まで誰にも明かしたことの無い心の秘密です。
 「親も未熟ということよ」この一言に心の霧は晴れました。なんだ、そういうことかと。私には無い視点です。その違いは新鮮に映り、私は結婚を決めました。
 穏やかさは、万事気にしないからであることが次第に解ります。「違うこと」これはこれで落し穴があります。これについては 話の本筋からそれるので、やめておきます。

 新しい家には地雷がありません。それだけで幸せです。子どもが産まれ、人生の第二章を実感しました。けれども悩みなき時間は短い。
 産院から帰り子育てが始まると、どうすれば人間に育つのだろうと思い始めます。ただ乳を与え おしめを替えて見つめてやればいいとは思えなかったのです。そうすればよかったのに。既に考え違いをしているとは思いもせずに。
 何か大切な核になるようなものを伝えなければ、人間に育たないと本気で思いました。愚かにも。
 気持ちの上ではとうに乗り越えた父とのわだかまりです。 在学中 父に手紙を出しています。 「間違っていたのは私であることが 勉強してわかりました」と。その手紙を父は長く大切にしていたらしいのです。父も苦しかったのでしょう。長い反抗期でした。
 
 しかし、突然怒り出す父への恐怖の感情は根深く私に残り、子どもを育てるに当たり 気付かないまま 私自身が地雷になっていったのです。

覆水盆に返らず
思ったことを口に出してはいけない
口から出た言葉は取り返しがつかない

という地雷は私に埋められていました。

 私は まだ幼い子に 思ったことを直ぐに口にしてはいけない と叱りました。事あるごとに。
自分を苦しめる元となった言葉を、気づかないまま自分の子に繰返したのです。疑いもせず。それどころか、伝えるべき大切なこととして。
 幼い子どもが 思うことを素直に口にすることを止めてはいけないのです。今なら常識でしょうに。
 この間違いに気が付くには 時間がかかりました。そして、分かった時 父が何故あれほど、あの言葉を繰返したかということに思い当たりました。
 あれは、戦争を生き延びた父の渾身の言葉であったのです。子どもへ伝えるべき 大切な格言
生き延びる為の遺訓。
 親は子の為にこの世を生き抜く杖を渡したいのです。
 けれども、幼い子どもに言う言葉ではなかった。成長に従い 言うべき時に言ってこそ活きる格言でした。
 でもそれは平和の世であればこそ言えることです。戦争を生き抜いて帰った父は戦時の焦りから抜け出せないままです。「今、今言わなければ 間に合わない」と、体が反応するのです。
 
 父は戦後を生きていましたが、私はそうではない。ただ、生れた時代を疑いなく生きていただけです。目覚ましい時代を。それなのに 同じ過ちを繰り返したのです。現代は覆水を盆に返す新しい発想さえ、求められているというのに。
 それは、当時の私の個性には 強すぎる言葉でした。父の言葉を幼い私は全身で受けとめてしまいました。思ったことを言ってはいけないと。
 肝心な時に本心を明かさない人間を 周りは
信じきれない。それは、相手を信じていないことになるから。子どもから見てもそうであった
に違いありません。

 給食の鶏皮事件も、今なら分かります。おそらくは あの日学校から連絡があったのでしょう。子どもの好き嫌いを無くし健康な体を作る義務が大人にはあるという信念。それは間違いではない。子どものために 心を鬼にしたに違いないのです。だから家でも鶏肉を出して 何とか食べられるようにしてやりたい。
 当時、スーパーはありません。八百屋、肉屋、魚屋は近くにあります。鶏肉は鶏屋まで買いに行かねば、手に入りません。遠くの鶏屋まで。
 加えて、戦地でも戦後も飢餓に苦しんだ父には、鶏肉はご馳走です。それを、嫌いだなど、到底 分かることはできない、許せないことでした。父は亡くなるまで、頑なにさつま芋を食べることを拒みました。戦後芋だけをたべて飢えを凌いだからです。
 
 私があれほど、ジャン・バルジャンとコゼットの物語にのめり込んだのは 理不尽に耐える姿に自分を重ねたからだと今は解ります。
 漢字帳事件も 給食事件も、いつ起こるかわからない父の怒りの爆発も、私には理不尽そのものです。それを口に出してはならないという最強の理不尽。
 それをはるかに上回る戦争の理不尽、戦後の理不尽と父も闘っていたのでしょう。父の突然の怒りについて 今はそんなふうに考えています。


戦争は、生き残れたとしても人の一生から大事なものを奪い続けます。
その人の時間や信頼。
父は 人生に
長い留守をしました。

  
      ・・・あとがき・・・
 父が亡くなる少し前 かろうじて娘を認識できている時期に 車椅子を押し桜舞う中を歩いたことがありました。その時、父は唐突に謝ります。
え、何? 聞き返しても素知らぬ顔です。
 父は何を謝ったのでしょうか。多分 私が思う事とは全く別のことだろうと思っています。
 私は親のことをこのように書きましたが、父は子について何も言わないまま逝きました。
 私も多分死が近くなった頃、子へ謝るだろうなと思っています。

  
 


 


 









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